日本地図を作った男、伊能忠敬が眠るお墓が台東区に?江戸幕府とも関わりのある源空寺
フーテミッターフ!
皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!
ところで皆さん、日本地図っていつの時代からあると思いますか?
実は古くから簡単なものは存在していたそうです。
ですがその地図は人づてに聞いて作成したものであったりして、正確性には乏しいものが多かったそうです。
そういった中で実測地図(実際に歩いて測量することで地図を作製すること)を作製した人物がいます。
「伊能忠敬(いのうただたか)」です。
今回はそんな伊能忠敬が埋葬されている源空寺と併せて伊能忠敬のエピソードもご紹介したいと思います。
それでは本編へ!
源空寺の成立
源空寺は戦国時代末期の1590年に、覚蓮社円誉道阿霊門和尚によって武蔵国(現在の東京都と神奈川県の一部)湯島の地に創建したとされています。
武蔵国がある関東の地では、この年に大きな出来事が2つありました。
その1つは関白である豊臣秀吉によって後北条氏に対して行われた、世に言う「小田原征伐」です。(現在は小田原合戦などが呼称の主流となっているが、世間的には小田原征伐の呼称の方が有名)
この戦いによって約半世紀にわたって関東一円を支配していた後北条氏は滅亡し、源空寺がある武蔵国の支配者も変わることとなりました。
そしてもう1つの出来事というのが、徳川家康の関東転封です。
これによって武蔵国含む関東一円は徳川家康が支配することとなり、後に江戸幕府が開かれることに繋がるのです。
1600年、天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は江戸幕府を開きます。
初代将軍となった徳川家康によって、1604年「源空寺」というお寺の名前が贈られたことで、現在の源空寺という名前になったとされています。(それ以前のお寺の名前は不明です。)
1634年には、3代将軍である徳川家光によって銅鐘が寄進されています。
この銅鐘は現存しており、台東区の有形文化財に指定されています。
しかし1657年、源空寺は江戸三大大火と呼ばれる明暦の大火によって焼失してしまいます。
その後源空寺は現在の上野の地に再建され、度々焼失したりするも現在へと至ります。
伊能忠敬という人物
さて先程紹介した源空寺にて埋葬されている、「伊能忠敬」とはどういった人物なのでしょうか。
日本史などで、日本地図を作製した人物と習ったのを記憶している方が多いと思います。
僕もそのうちの一人ですが、詳しく調べてみると中々に面白い人物でしたので、ご紹介していきます。
伊能忠敬は1745年、上総国(現在の千葉県)にて生まれます。
幼いころから算術に明るく、その才を見込まれる形で17歳の時に酒屋である伊能家に婿入りしました。
その時に現在に伝わる「伊能忠敬」という名前になったそうです。
その後は伊能家の当主として家を切り盛りし、41歳の時に家督を長男に譲り、隠居することになりました。
隠居に際して伊能は、兼ねてより興味を抱いていた暦学や天文学を学ぶために江戸へと出向きます。
江戸へ出向いた伊能は、天文学者である高橋至時に弟子入りし、後の日本地図作成に必要な知識を身に着けていきます。
この時の伊能の年齢は50歳、そして師匠である高橋は31歳。
親子ほど歳の離れた2人でしたが、伊能は高橋を慕い、勉学に励んだそうです。
そして伊能が55歳の時に日本地図の作成を始めます。
当時の平均寿命を考えれば、十分高齢の域に入る年齢ですよね。
第1回目は蝦夷地南岸から奥州街道に沿って測量を行ったとされています。(現在の北海道南岸から東北にかけて。)
この働きが認められ、伊能だけではなく幕府も一緒になって日本地図の作成を行っていくことになります。要は国家事業として行われたということですね。
第1回の測量も含め、都度10度に渡り、全国の測量を行いました。
その最中には伊能の師匠である、高橋が亡くなってしまいました。
伊能はこの死を悼み、毎朝高橋のお墓がある方向に向かって手を合わせていたそうです。
高橋のお墓は源空寺にあり、国の史跡に指定されています。
伊能は高橋の想いも背負う形で生涯にわたって、地図の製作に励みました。
ですが測量自体は終わったものの、地図製作は志半ばにして、1818年74歳で亡くなってしまいます。
大往生と言えるほどの年齢ですが、完成まであと少しという段階でしたのでかなり悔しかったのではないでしょうか。
伊能は遺言に師匠である高橋と同じお墓に埋葬してほしいと伝えました。
現在も伊能は源空寺にて眠っています。
その後の地図製作は、伊能の孫である忠誨(ただのり)と高橋至時の息子である景保によって作られました。
伊能の死から3年後となる1821年、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」として幕府に提出されました。
それは、伊能の第1回目の測量開始から21年後のことでした。
まとめ
ここまで見て下さってありがとうございました。
本記事について簡単にまとめさせていただくと、
・1590年に創建され、1604年に江戸幕府初代将軍徳川家康によって「源空寺」の名前が与えられる
・3代将軍徳川家光によって銅鐘が贈られるなど徳川家とも関わりが深いお寺
・明暦の大火によって源空寺も焼失し、現在の上野の地に移転
・源空寺には「大日本沿海輿地全図」を作製した伊能忠敬と、その師匠である高橋至時のお墓がある
といったところでしょうか。
【上野×徳川家】シリーズも今回で第9弾となりました。
源空寺も非常に徳川家との関係が深いお寺でした。
また伊能忠敬の人生、中々に波乱万丈でしたね。
死後のお墓も師匠と同じ場所を所望するなど、どれだけ伊能が高橋至時を慕っていたかが分かりますよね。
そんな偉大な方々が源空寺に埋葬されています。
上野に来た際に、訪れてみてはいかがでしょうか。
それではここまでホントにありがとうございました。
ジャネバーイ!
源空寺
住所:東京都台東区東上野6-19-2