【上野×徳川家】東京上野で幕末に行われた戊辰戦争・上野戦争!上野公園に眠る旧幕府軍、彰義隊の墓
ボンジュール!皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!
「ボンジュール」は皆さんもどこの国の挨拶かご存知ですよね!
そう、フランス語です。
フランスとは実は江戸時代末期の幕末からお付き合いがある国だということを知っていましたか?
この事実に衝撃を受けた方もいるかもしれません。
だって江戸時代は鎖国を行っていて「中国とオランダとしか国の付き合いがない」というイメージがありますからね。
フランスと日本の国としての関係は、日米修好通商条約を筆頭とした安政五か国条約から始まります。
つまり、ペリー来航によって鎖国がとかれた後ということですね。
そこから江戸幕府とフランスの付き合いも始まり、日本はフランス人のジュール・ブリュネらを軍事顧問(派遣された軍人が派遣先の軍隊に関する諸々を指導等する人)として招き、軍制もフランス式を導入しました。
鎖国が有名な江戸時代には、オランダの他にも親密なヨーロッパの国が存在していたのです!
今回はそんな幕末の、江戸時代から明治時代へと移行する際に行われた国を二分した内戦、戊辰戦争(ぼしんせんそう)についてお話させていただきたいと思います!
特に戊辰戦争の中でも東京、上野という都心のど真ん中で行われた上野戦争についてフォーカスして行きたいと思います。
上野公園にはその戦争にまつわる地があるので併せて紹介出来たらと思います!
それでは本編へ!
そもそも「戊辰戦争」って?
まず、戊辰戦争が起こるに至った背景から話していきたいと思います。
江戸時代は皆さんもご存知のように江戸幕府・徳川家によって政治が行われてきました。
将軍が政治のトップに立つという状況ですね。
国の運営方針としては、ペリー来航により開国以後は少しずつ近代化を図ろうとしている状況でした。
それははじめに幕府がフランス式軍制を導入していたことからも窺えます。
この江戸幕府の勢力は、よく旧幕府(旧幕府軍)と呼称します。
一方で対をなすように、明治時代、大日本帝国を創設するに至った政府は、新政府(新政府軍)とよく呼称されます。
新政府には中核をなす、特に重要な藩(今でいう県)が2藩存在していました。(正確には他にも何藩も存在しますが、ここでは分かりやすさ重視で!)
それが皆さんもご存知、長州藩(ちょうしゅうはん)と薩摩藩(さつまはん)です。
新政府、特にその中の長州藩は当初は尊王攘夷(そんのうじょうい)という、天皇を政治の中心に据え、外国を日本から追い出すという方針を取っていました。
ですが長州藩は下関戦争というイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国連合艦隊と戦争を経験したことで、急速な近代化が必要であると気づいたのです。
そういった状況下で接近してきたのが、先程出てきた薩摩藩です。
薩摩藩は、幕末期の長期間を旧幕府側に属していました。長州藩とは敵であったということですね。
しかし、その薩摩藩も薩英戦争というイギリスとの戦争を経験しました。
この経験により、薩摩藩も急速な近代化が必要である、という結論に至ったのです。
そこで登場するのが、かの有名な坂本龍馬ですね。
坂本龍馬の仲介により、長州藩と薩摩藩が手を組み、新政府を組織することになったのです。
これが所謂、薩長同盟ですね!
こう見ると歴史が繋がっているということがよく分かるのではないでしょうか?
このようにして、
少しずつ近代化(旧幕府) VS 急速な近代化(新政府)
の対立構図が出来たのです。
そこから日本全国をかけるようにして行われたのが、総称して戊辰戦争という訳です!
その中の一つが上野戦争です。
どうでしょう。分かりやすく説明出来ていましたかね?
これ今の僕の精一杯です!(笑)
上野戦争と彰義隊
まず彰義隊(しょうぎたい)とは何なのか軽く説明しますね。
戊辰戦争は日本全国をかけて戦争をしたということを先ほども言いましたが、その戊辰戦争の最初の戦い・鳥羽伏見の戦いに敗れた第15代将軍徳川慶喜は江戸に帰還し、上野の地でほとぼりが冷めるまで謹慎をしようと画策しました。
彰義隊は当初この徳川慶喜を護衛するためという名目と、江戸市中を警衛するという目的のもと結成されました。
彰義隊の隊員構成は、徳川慶喜の育った家である一橋家の家臣団らの他に、旧幕府の幕臣、江戸市中の町人も一部いたとされています。
要は新政府(後の明治政府)の不満の受け皿となっていたのが、彰義隊と言えますね。
ほとぼりが冷めるまで上野で謹慎を画策していた徳川慶喜ですが、水戸へと移動することになりました。
そんな上野の地には徳川家の菩提寺(ぼだいじ:先祖代々葬っている墓所)、寛永寺が存在します。
彰義隊はその寛永寺にてこもり、新政府軍を迎え撃ちます。
これが上野戦争となります。
ちなみにこの菩提寺、寛永寺の記事は以前僕も書いているのでよかったら併せてみて下さい!(ゴマすりゴマすり)
上野戦争は旧暦明治元(1868)年5月15日の午前7時に開戦、ですが僅か10時間後の午後5時には終戦となります。
結果は新政府の圧勝となりました。
この規模間での僅か10時間という短時間での決着には、如何に新政府軍の攻撃が苛烈であったかが窺えますね。
逆に言えば、新政府にとってこの上野戦争に勝てば江戸一帯を抑えることになるので、その重要性を明確に理解していたと言えますね。
なんてったって江戸は江戸幕府、徳川家の中心地(拠点)なわけですから、そう考えると江戸を抑える、という重要性も皆さんも分かりやすいのではないでしょうか。
彰義隊の墓
新政府への不満、あるいは徳川慶喜や江戸幕府への忠義を胸に散っていった彰義隊はしばらく賊軍(ぞくぐん:新政府は天皇の命より旧幕府軍らの征討を承っていたため、彰義隊も朝敵と見做され、賊軍と呼称されていた)として扱われ、墓所が作られることもありませんでした。
ですが1874(明治7)年になり、ようやく彰義隊の墓を建立することが許され、その一部は現在上野公園内に存在します。
そちらには新政府の目を憚り(はばかり)、「彰義隊の墓」と明確に記されてはいませんが、彰義隊の墓となっています。
7年の時が経ってようやく、墓を建立することが出来たというわけです。
その背景には、新政府が彰義隊に関しては特に厳しく処遇したためとも言われています。
まとめ
ここまで見て下さってありがとうございました。
ここで本記事について簡単にまとめさせていただくと、
・かつて東京上野では政権を懸けた日本を二分にした戊辰戦争、上野戦争が行われた
・寛永寺にて旧幕府軍、彰義隊は散っていった
・その彰義隊の墓が上野公園内に一部存在している
といったところでしょうか。
上野という地は江戸幕府、徳川家との結びつき、関わりが深い土地なので、それにまつわるエピソードがたくさんありますね。
僕もこれまで上野と徳川家が関連した記事を、上野東照宮、寛永寺と書かせていただきました。
なので今回は「上野×徳川家」の第3弾と言えますね!
今後も「上野×徳川家」に関する記事を書いていくことがあると思いますので、その際も是非ご覧になって下さると嬉しいです!
それではここまでホントにありがとうございました。
ジャネバーイ!
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