台東区には15人中7人の徳川歴代将軍が祀られている!寛永寺 徳川歴代将軍御霊廟&谷中霊園
フーテミッターフ!
皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!
オランダ語の挨拶にて、登場!
本日は江戸時代、江戸幕府、徳川歴代将軍について紹介したいと思います。
台東区内にはなんと、徳川歴代将軍15代のうち、7名もの人が祀られているんです。
半分近くもいるってスゴイですよね!
徳川家の菩提寺(ぼだいじ:先祖代々一族が埋葬されている墓のこと)である寛永寺に6名(4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定)、谷中霊園に1名(15代慶喜)祀られています。
ちなみに残る8名は、日光に2名(初代家康、3代家光)、港区芝にある徳川家のもう一つの菩提寺である増上寺に6名(2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂)祀られています。
今回は台東区内に埋葬されている7名と、その場所について紹介したいと思います。
それでは本編へ!
目次
寛永寺
台東区の上野公園の中にあるのが、徳川家の菩提寺の一つである寛永寺です。
寛永寺は、1625年(寛永2年)に第3代将軍徳川家光によって創建されました。
徳川家の菩提寺ということもあり、寺領(寺が所有している領地)は広く、現在の上野公園一帯は寛永寺の寺領内でした。
現存している五重塔や上野東昭宮、清水観音堂なども境内の一部となっていました。
寛永寺の寺領の一部にあるのが徳川家霊廟(れいびょう:先祖や人の霊を祀っている建物)で、そこに今回ご紹介する7名のうち6名が祀られています。
1名ずつ詳しく見ていきましょう。
第4代 徳川家綱
第4代将軍徳川家綱(いえつな)は、第3代将軍徳川家光(いえみつ)の長男として生まれ、僅か10歳の時に将軍職に就きました。
また、39歳という若い年齢で亡くなってしまいます。
家綱が行った政策として有名なのは、老中(ろうじゅう)政治の確立、養子の禁緩和、殉死(じゅんし)の禁などがあります。
家綱の代から武力をもって国を治める武断政治から、法などをもって国を治める文治政治へと転換していきます。
家綱は寛永寺の厳有院霊廟勅額門内の御霊廟にて祀られています。
第5代 徳川綱吉
第5代将軍徳川綱吉(つなよし)は、第3代将軍徳川家光の四男として生まれます。
本来ならば四男の綱吉に将軍職を引き継ぐ権利はありませんでした。
しかし、長男で第4代将軍の家綱が亡くなると、家綱に子どもが居なかったために養嗣子(ようしし:後継ぎとなり、家督相続するために養子となること)となっていた綱吉が、将軍職を継承しました。
長男が亡くなり、後継ぎも居ない。
じゃあ家光の次男や三男はどうしたの?と思われますよね。
次男は小さい頃に既に亡くなっており、三男の綱重(つなしげ)も既に亡くなってしまっていたために、棚ぼた式に綱吉へと将軍職がやってきたというわけです。
綱吉と言えば、やはり一番有名な政策は生類憐みの令ですよね。
綱吉は寛永寺の常憲院霊廟勅額門内の御霊廟にて祀られています。
第8代 徳川吉宗
第8代将軍徳川吉宗(よしむね)は、徳川御三家の1つ紀州藩の第2代藩主徳川光貞(みつさだ)の四男として生まれます。
吉宗も本来将軍職どころか、紀州藩主になることすら出来ないはずでした。
ですが、父光貞、長兄綱教(つなのり)、三兄頼職(よりもと)が相次いで亡くなると、四男である吉宗が紀州藩の第5代藩主となりました。(次兄は幼少の頃に既に亡くなっていた)
紀州藩主として辣腕を振るい、財政の再建を行っている最中、第7代将軍家継(いえつぐ)が亡くなってしまい、第2代将軍秀忠(ひでただ)より続いていた血筋が途絶えてしまいます。
将軍家の血筋を絶やすわけにはいかず、紀州藩にて辣腕を振るっていた吉宗が目をつけられ、第8代将軍となり、将軍職を継承したという経緯がありました。
御三家という制度はこういった将軍家の血筋が断絶の危機に陥った際に、一族(御三家)から将軍を輩出し、断絶させないためにつくられたと言えます。
吉宗が行った政策として有名なのは、江戸三大改革の一つとされる享保の改革などがありますね。
吉宗の代で幕政が再建されたりしたので、吉宗は江戸幕府中興の祖(ちゅうこうのそ:衰退し危機的状況に陥ったものを再び興して盛んにした人)とも言われています。
吉宗は常憲院霊廟に合祀(ごうし:一神社の祭神を他の神社と合わせて祀ること)されています。
10代 徳川家治
第10代将軍徳川家治(いえはる)は、第9代将軍徳川家重(いえしげ)の長男として生まれます。
父家重は幼少の頃から言語障がいを患っており、またその影響で酒色に耽っていたこともあって一時は将軍職の継承も危ぶまれていました。
しかし、祖父吉宗が隠居し大御所として政権を握り、父家重を擁護する形を示したことで無事に第9代将軍となりました。
祖父吉宗が継承に難があった家重を後継者として選んだ背景には、第10代将軍となる家治の存在があります。
家治は幼少時から聡明で、祖父吉宗自ら教育・指導に当たっていたとされています。
次代への期待から父家重が選ばれ、家治も無事に将軍職を継承しました。
しかし将軍になると、趣味に没頭し、暗君と評価されることもあります。
一方で様々な経済政策を行った側用人の田沼意次を重用し、政治を任せました。
田沼意次の評価自体が賛否分かれる人物ですので、したがって家治の評価自体も難しいところです。
家治は厳有院霊廟に合祀されています。
第11代 徳川家斉
第11代将軍徳川家斉(いえなり)は、徳川御三卿の1つ一橋家の第2代当主一橋治斉(はるなり)の長男として生まれます。
第10代将軍の徳川家治の世嗣(せいし:後継ぎのこと)である徳川家基が急死し、家治の弟も病弱で子供が居なかったために、家斉は家治の養子となり、将軍職を継承しました。
徳川御三卿が創設された理由も徳川御三家が創設された理由と同じで、将軍家に後嗣(こうし:後継ぎ)が居なかった時に、後継者を輩出するためです。
家斉の時代に江戸三大改革の一つである寛政の改革が行われました。
家斉は厳有院霊廟に合祀されています。
第13代 徳川家定
第13代将軍徳川家定(いえさだ)は、第12代将軍徳川家慶(いえよし)の四男として生まれます。
父家慶は子沢山で14男13女を儲けましたが、成人することが出来たのは家定だけで、しかも家定自身も幼少のころから病弱だったそうです。
一時は将軍になることも危ぶまれましたが、父家慶の死後に将軍職を継承しました。
ペリー来航時の将軍は家定で、日米和親条約が結ばれたりもしました。
家定は父家慶とは一転して子宝に恵まれず、病弱だったこともあって後継者問題が勃発します。
最終的に後の第14代将軍となる徳川家茂(いえもち:当時は慶福の名であった)を、御三家の1つである紀州藩から養子に迎え、後継者問題も一時は解決しました。
家定は35歳という若さで生涯を閉じ、徳川家茂が第14代将軍に就任しました。
家定は常憲院霊廟に合祀されています。
谷中霊園
台東区の谷中、天王寺のほど近くにあるのが谷中霊園です。
谷中霊園には数多くの著名人や偉人が埋葬されています。
渋沢栄一を始めに鳩山一郎、徳川御三卿などです。
そして最後に紹介する江戸幕府最後の将軍、第15代将軍徳川慶喜も谷中霊園に埋葬されています。
第15代 徳川慶喜
第15代将軍徳川慶喜は、御三家の1つである水戸藩の第9代当主徳川斉昭(なりあき)の七男として生まれます。
第12代将軍徳川家慶の意向により、御三卿の1つである一橋家の家督を相続しました。
その際に家慶より偏諱(へんき)を賜り、徳川慶喜と名乗るようになりました。(それ以前までは松平昭致と名乗る)
一橋家の家督の相続後、将軍家において後継者問題が浮上します。
それが第13代将軍徳川家定の後継者を巡る問題です。
慶喜は第14代将軍となる徳川家茂の対抗馬として、擁立されたのです。
結果として慶喜ではなく、家茂が継承することで決着がつきますが、またもや問題が発生します。
第14代将軍となった徳川家茂が21歳という若さで亡くなってしまったのです。
これにより慶喜は将軍職を継承し、第15代将軍となりました。
慶喜が行ったこととして有名なのは、大政奉還がありますよね。
大政奉還によって江戸幕府は終結し、慶喜が最後の征夷大将軍となりました。
慶喜は谷中霊園に埋葬されています。
まとめ
ここまで見て下さってありがとうございました。
本記事について簡単にまとめさせていただくと、
・上野の寛永寺には6名(4代家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定)が御霊廟にて祀られている
・谷中霊園には江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が埋葬されている
・台東区には15人中の7人と約半数の将軍が祀られている!
といったところでしょうか。
台東区は歴史に富んだ町ですので、徳川家にまつわる歴史も必然的に多いですね。
御霊廟の中へ入ることは出来ませんが、勅額門を見るだけでも是非行ってみて下さい。
きっと感じる何かがあると思います!
それではここまでホントにありがとうございました。
ジャネバーイ!
東叡山 寛永寺
住所:東京都台東区上野桜木1-14-11
電話番号:03-3821-4440
開門・閉門時間:9:00~17:00
谷中霊園
住所:東京都台東区谷中7-5-24
電話番号:03-3821-4456(8:30~17:15)