【上野×徳川家】江戸幕府の繁栄、安寧はここにあり?歴代徳川将軍が眠る菩提寺、寛永寺
フーテ ミッターフ!どうもこんにちはメッシンタです!
突然ですが、今のあいさつはどこの国の「こんにちは」でしょうか(笑)
きっと難しいと思うので、正解を言います。
正解はオランダ語です!
オランダと歴史・日本史の2つを結び付けて考えると、何が思い浮かびますか?
多くの人は江戸時代の鎖国体制における日蘭貿易・日蘭交流を想像したと思います。
ですがオランダの話は一回忘れてもらって、今回は江戸時代という260年間の長期にわたり日本を治め、繁栄、安寧に導いた徳川将軍家の菩提寺(ぼだいじ)、寛永寺について紹介していきます!
寛永寺のその歴史・始まり
東京都台東区上野にある寛永寺は1625年に慈眼大師天海大僧正(じげんだいしてんかいだいそうじょう)によって創建されました。
この天海というお坊さんは初代将軍徳川家康の信任が厚かった人物です。
それは徳川家康の息子であり、2代将軍の徳川秀忠の時代も変わりませんでした。
徳川秀忠は1622年、天海に上野台地を与えています。
そういった経緯を経て、1625年、3代将軍の徳川家光の時代に寛永寺が創建されたのです。
また天海というお坊さんには出生に不明が多く、ある人物との共通点が幾つもあることから、そのある人物なのではないかとも言われていました。
そのある人物というのが天下の謀反人、明智光秀です。
明智光秀は本能寺の変後、豊臣秀吉との決戦に敗れ、敗走していたところを農民によって竹槍で殺されたというのが一番の有力説です。
結局この亡くなる瞬間も明確でないことから、この天海=明智光秀と結びつけられていると、考えられます。
ただあくまで諸説ありの話なので、与太話程度に思っておいて下さいね。(笑)
ところで皆さん、先ほどから出てくる「菩提寺って何?」って思っているのではないでしょうか。
簡単に言うと、菩提寺とは先祖代々、死後の冥福を祈るお寺のことで、その寺に先祖代々の人々が眠っているのです。
つまり、徳川家の歴代将軍が眠っているということです!
寛永寺のその歴史・眠る歴代将軍
最初に寛永寺に葬られたのが、第4代将軍・徳川家綱(いえつな)でした。
この時より、寛永寺が徳川家の菩提寺として定められました。
徳川家綱は3代徳川家光、2代徳川秀忠、初代徳川家康の将軍家という血筋をひく人物で、先祖が偉大ということでそのプレッシャーは並大抵ではなかったと思います。
ですが、徳川家綱はその役目を果たし、偉大な功績の1つと言えるものを残します。
僕が思うにそれは武断政治(ぶだんせいじ)から文治政治(ぶんちせいじ)への転換です。
武断政治は字からも分かるように、戦国時代の流れをひいた武力による統治方法です。
徳川家綱はそんな殺伐とした世界から、繁栄・安寧へと導くべく、文治政治の礼儀・法令に基づいた政治へと転換したのです。
そしてそういった意志を受け継いだのが、第5代将軍・徳川綱吉(つなよし)です。
この徳川綱吉も寛永寺に葬られています。
この徳川綱吉はご存知の方も多いかもしれません。
徳川綱吉は「生類憐みの令」を発布した人物として有名です。
生類憐みの令は、字が表しているように、生物すべてを保護し、守るために発布されました。
徳川綱吉は特に犬を大切に扱いました。
それによって、生類憐みの令で悪化した財政が庶民にまで波及すると「犬将軍」と揶揄されたとも言われています。
そういった一面から徳川綱吉は、悪名高さが目立つのですが、違った視点から見ることも出来ます。
それが兄である第4代将軍・徳川家綱の意志を受け継いだという点です。
徳川家綱は平和な時代をもたらすべく、文治政治へと切り替えましたが、徳川綱吉が行った生類憐みの令も「法の下に命の大切さ」を訴えたと考えれば、違った見え方が出てくるのではないでしょうか。
徳川綱吉はその他にも「服忌令」という今のお盆や喪中といった行事の名残となった法令も定めています。
この法令が定められたことで血を忌み嫌う文化が生まれ、今の日本にも繋がる価値観が形成されていったのです。
結果から見るとこれは先程から何度も出てきている、武断政治から文治政治への切り替えとしては最適解ですよね。
こういう違った視点から見ると、物事が変わって見えてくるのが、歴史の特に面白いところだと僕は思うんです!
だから僕はそんな歴史の魅力を皆さんに少しでも知ってもらえるように、これからも頑張りますので、僕の記事を読んで下さいね! (笑)
とまあ露骨な宣伝はさておき、次の寛永寺に眠る歴代徳川将軍を紹介していきます。
次に寛永寺に葬られたのが、第8代将軍・徳川吉宗(よしむね)です。
この徳川吉宗もご存知の方が多いと思います。
徳川吉宗はマツケンサンバで有名な松平健が主演を務めた『暴れん坊将軍』としても有名ですし、享保の改革を行った人物としても有名です。
この享保の改革は江戸の三大改革と呼ばれる中で最も効果があったと言われており、その実績から徳川吉宗は江戸幕府中興の祖と呼ばれています。
具体的な内容としては、河川の工事などの治水工事、新田の開発などで収入を増やす政策を行う一方で、他方では財政の質素倹約を行うことで支出を抑える策も行っています。
ここまで3名の歴代徳川将軍を紹介してきましたが、この他にも第10代将軍・徳川家治(いえはる)、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)、第13代将軍・徳川家定(いえさだ)らも寛永寺に葬られています。
チラッと寛永寺紹介!
こちらは先程も紹介した第5代将軍・徳川綱吉と、第8代将軍・徳川吉宗が眠る徳川歴代将軍御霊廟です。
しかしこの御霊廟は第2次世界大戦時に大部分が焼失してしまい、現在は上記の2つのみが徳川歴代将軍御霊廟として現存しています。
こちらの徳川歴代将軍御霊廟は国の重要文化財に指定されています。
こちらの旧本坊表門も国の重要文化財に指定されています。
さらにこの清水観音堂も国指定の重要文化財になっています。
この清水観音堂は京都にある、清水寺の舞台部分を模倣して作られたそうです。
まとめ
ここまで見て下さって、ありがとうございました!
寛永寺の歴史、その部分にフォーカスしてお送りしました。
僕のこの記事によって、少しでも皆さんに寛永寺に行ってみたいかも、と思えてもらえたら嬉しい限りです!
寛永寺の魅力について簡単にまとめさせていただくと、
・江戸幕府の始まりから終わりまでが詰まった寛永寺
・徳川将軍家を見守ってきた歴史がある
・都内近郊で国指定の重要文化財を見ることが出来る
・上野公園一帯に広がる寛永寺の境内を巡ることも出来る
といったところだと思います。
皆さんも是非、実際に足を運んでみてください!
それではここまでホントにありがとうございました。
ジャネバーイ!
寛永寺
住所:東京都台東区上野桜木1-14-11
電話番号:03-3821-4440
開門時間・閉門時間 : 午前9時~午後5時
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