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【台東区に眠る偉人】年齢は数字に過ぎない!50歳を過ぎてから事業を始めた伊能忠敬について調査!

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こんにちは、とくらです。

さて、台東区には、今も昔も多くの文化人が居住しています。 落語家や演劇作家、芸人や画家、小説家など、幅広い文化人の住まいとなってきました。

また、寺院の多さから多くの有名人も眠る土地です。

さて、台東区にゆかりのある多くの文化人の中でも、今回は台東区東上野にある源空寺に墓地がある伊能忠敬についてご紹介します。


伊能忠敬

伊能忠敬といえば『大日本沿海輿地全図』ですよね。

江戸時代に徒歩で全国を測量し、日本の精密な地図を作ったすごい人です。

1745年に現在の千葉県で生まれた伊能忠敬は、1794年に隠居をするまで問屋を営んだり、村の後見人をしたりと、50歳まではまだこの後世に語り継がれる仕事に着手していません。

以前から、測量や天体観測に興味を持っていた忠敬でしたが、それまでは独学で暦学の本を読んだりしていたのです。

長距離を歩くことになるため、きっと若い時に始めた事業だと思っていたので、これは驚きです。

隠居後、50歳にして江戸へやってきた忠敬は、天文学者・高橋至時に弟子入りします。

この時、至時は31歳で、なんと19歳も年下の師匠でした。

しかし、誰よりも熱心に勉強しており、毎日天体観測を欠かすことなく続け、南中(太陽が真南にくること)を測るため、必ず昼には外出先から帰っていたほどでした。

しかも、慌てて出先から戻るため、忘れ物をすることもしょっちゅうだったとか…

いかに年上とはいえ、これほど熱心な弟子ではきっと至時も可愛く思っていたのではないでしょうか。

当時、忠敬の師匠である高橋至時は『寛政歴』という暦を作っていました。

この暦が完成した時に、至時は「もっと正確なものが作りたい」と考えます。

このためには、地球大きさや日本の位置関係を正確に知ることが必要でした。

忠敬は、深川から浅草までの南北の距離を測ればよいのではないかと考え、実際に測量を行いましたが、至時から「江戸から蝦夷地までくらいの距離を測らないと正確な値を出すことはできないのでは」と提案され、蝦夷地までの測量を開始することになります。

1800年、忠敬は幕府の許可を得て遂に江戸を出発します。

55歳の時のことです。

今でこそ55歳といえばバリバリの現役ですが、当時の忠敬は隠居生活中です。

おそらく江戸時代では結構な高齢者だったのではないでしょうか。

この行動力には本当に頭が下がりますね。

さて、蝦夷地測量を終えた忠敬一行は幕府に計測結果を提出します。

この時に計測を行った180日間の手当として、約22両を受け取りますが、なんと忠敬の持ち出しは約100両。

現代の価値に換算すると約1200万円にもなるそうです。

趣味が高じてと考えれば、なんとなく納得できそうな気もしますが、公的な事業として行われたと考えるとちょっとどうなの?と感じてしまいますね。

この後、蝦夷地測量が高く評価され、第二次測量が開始されました。

1800年に開始された測量ですが、その完成を見ることなく1804年に師の高橋至時が死去します。

至時が亡くなった後、忠敬は毎日その墓がある源空寺の方角に向かって手を合わせていたといいます。

長い間測量を続け、70歳も近くなったころ、忠敬は「この仕事を終えたらまた隠居したい」と語ったそうです。

第3の人生といったところでしょうか。

結局測量は1816年まで続き、そこから最終的な地図の作成に取り掛かりました。

1818年地図の完成まで至ることなく、忠敬は亡くなります。

弟子たちに見守られながら、74歳でその生涯を終えたのです。

測量地図の完成と死後

忠敬が亡くなった後も、高橋至時の息子である高橋景保らを中心にその死を伏せて作業は進められました。

地図が完成したのは1821年、忠敬の死後3年が経ってからのことでした。

完成した地図は、『大日本沿海輿地全図』と名付けられ、景保と、忠敬の孫・忠誨(なんと当時15歳!)によって報告されます。

測量を始めた二人はすでに亡くなっていますが、師の息子である景保、忠敬の孫である忠誨の二人の手で『大日本沿海輿地全図』が遂に世の中に出されたと思うと、とても感慨深いですね。

その後、『大日本沿海輿地全図』は幕府の紅葉山文庫に納められますが、ドイツ人医師・シーボルトが国外に持ち出そうとしたことで景保らは処罰されることになります。

これが「シーボルト事件」です。

当時は日本地図を国外に持ち出すことは禁止されていたのです。

高橋景保はこの事件で死罪判決を受け、獄死しています。

また、景保の子供たちも処分を受けました。

これには忠敬も至時も天国から悲しんでいたのではないでしょうか。

何とも辛い顛末です。


伊能忠敬の墓


忠敬は死の直前、「師匠のそばで眠りたい」と語ったため、墓地は師高橋至時と同じく源空寺にあります。

至時の死後、毎日手を合わせていたということですから、その思いは本当に強いものだったんでしょうね。

アクセス:銀座線 【稲荷町駅】徒歩6分


まとめ

測量で有名な伊能忠敬が実際にその事業を始めたのは55歳の時。

何かを始めるのに遅すぎるということはないんだなあと改めて気付かされます。

また、19歳も年下の至時を師と仰ぎ、本当に尊敬していたことがわかるエピソードも多くあり、人としての在り方を考えさせられる人物でした。

新しいことを始めるのに迷ったときには、忠敬の生きざまを思い出したいですね。



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ライター紹介

とくらじゅん

イラストレーター・ライター

1991年生まれ。下町暮らしのフリーライター・イラストレーター。 妖怪イラスト、育児漫画、ADHDエッセイなどを書いています。
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