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親鸞聖人が開祖の浄土真宗!織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とも関わりがある歴史が深い東本願寺(東京本願寺)

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ボン ディア!

皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!

今回は戦国時代の話によく登場する「本願寺」に関する記事ということで、ポルトガル語の挨拶で登場させていただきました。

火縄銃(種子島銃)やキリスト教の伝来も戦国時代で(詳細に言えば戦国時代以前から鉄砲に近いものや、キリスト教の教えも中国から日本に伝わってはいたが広まったのが戦国時代)、そういった外来文化を運び込んだのがポルトガル人やスペイン人などの南蛮人でした。

もしかしたら「一向宗」や「一向一揆」といった言葉のほうが、分かりやすい方もいるかもしれません。

しかし「一向宗」という言葉は正式ではないので、今回は「本願寺派」という言葉で統一したいと思います。

それでは本編へ!




浄土真宗の成り立ち

親鸞聖人御影(安城御影)
参照:東本願寺 公式サイト

浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、1173年に京都にて生まれました。

両親と幼いころに死別したこともあいまって、僅か9歳の時に比叡山に入山し、約20年に渡り厳しい修行を続けたそうです。

しかし、親鸞聖人自身が悟りを開く教えを見つけることは出来ず、比叡山での修行をやめました。

そんな折に、京都にて法然上人(ほうねんしょうにん)に出会い、師事(しじ)して行ったのです。

その教えこそが「本願他力の念仏」。(こちらは師匠の法然上人の教え)

「南無阿弥陀仏」と唱えていれば、阿弥陀様が成仏させてくれるという、浄土真宗の教えに繋がるのです。(こちらが弟子の親鸞聖人の教え)

師弟関係となった2人であったが、法然上人の教えの広まりを心よく思わない者たちによってそれぞれ遠地へと流されてしまいます。

結局これによって2人は生涯出会うことが出来なくなります。

しかし親鸞聖人はそこでめげることはなく、逆に教えを広めていったのです。

こうして浄土真宗が成立しました(1224年)。

本願寺の成り立ち(浄土真宗本願寺派)

親鸞聖人が亡くなると、末娘の覚信尼公(かくしんにこう)によって埋葬され、その地は大谷本廟(おおたにほんびょう:京都の大谷という地に建てたため)と言います。

時が経ち、親鸞聖人の曾孫(ひまご)に当たる覚如上人(かくにょしょうにん)の時代になると、浄土真宗の教えが全国に広がると同時に、様々な宗派の教えが誕生していました。

そういった状況を打破するために覚如上人は、浄土真宗の教えの純粋性を訴え、大谷本廟の名を「本願寺」と改めました。

本願寺と戦国時代

1467年、応仁の乱をきっかけに争いは日本全国へと波及していきます。

これにより、皆さんがご存知の戦国時代へと突入するのです。

その争いにやがて本願寺も巻き込まれてしまいます。

当時の本願寺のトップは僅か10歳で跡を継いだ、証如上人(しょうにょしょうにん)でした。

その時の本願寺の本拠は京都の山科(やましな)で、「山科本願寺」と呼ばれていました。(大谷本願寺→南近江(現在の滋賀県南部)→北陸→山科本願寺と拠点を転々としていた。)

1532年、山科本願寺の戦いが起きます。

この争いは証如上人ら本願寺勢VS法華宗&細川晴元(ほそかわはるもと:室町幕府の当時の政権のトップである管領(かんれい)であった)&六角定頼(ろっかくさだより:後に室町幕府より管領代(かんれいだい:管領を代行する役職)に任命される近江の大名)の構図でした。

この戦いに本願寺勢は敗れ、大坂石山の地へと逃れます。

これが俗に有名な石山本願寺(いしやまほんがんじ)へと繋がるのです。

そして本願寺のトップも、皆さんがききなじみがあるであろう、顕如上人(けんにょしょうにん)へと移ります。

顕如上人の時代で最も有名なのが、織田信長(おだのぶなが)との「石山合戦(いしやまがっせん)」です。

戦いは長期化し、終結するまでに11年もの年月がかかりました。

11年の間に織田信長は、北近江(現在の滋賀県北部)の大名浅井家、越前(えちぜん:現在の福井県北部)の大名朝倉家の両家を滅ぼします。

さらに1575年に、かの有名な「長篠の戦い」で武田家を徳川家とともに討ちます。

また伊勢(いせ:現在の三重県)の公家大名北畠を滅ぼし、中国征伐(中国地方を指します)の軍勢も差し向けています。

このように織田信長は畿内(きない:現在の近畿地方周辺)一帯を制圧し、着実に石山本願寺の力を削いでいったのです。

石山合戦は、戦いが余りにも長期化したことで犠牲者が増えてしまいました。

そういった状況の中で時の天皇陛下、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅旨(天皇による命令)によって、石山合戦は終結したのです。

東本願寺派と西本願寺派

石山合戦終了後、顕如上人は京都の鷺森(さぎもり)に拠点を移し、鷺森本願寺と改めました。

しかしその後も拠点は転々とし、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命令により、京都七条堀川が本願寺の拠点となりました。

顕如上人が亡くなると(1592年)、長男の教如上人(きょうにょしょうにん)が跡を継ぎました。

ですが、その教如上人が豊臣秀吉によって強制的に隠居(いんきょ:第一線から退き、家督を譲ること)させられます。

したがって、本願寺を継いだのは三男の准如上人(じゅんにょしょうにん)でした。

豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦い(1600年)によって徳川家康(とくがわいえやす)が勝利し、天下は徳川家へと移ります。

すると天下人である徳川家康によって、京都七条烏丸に本願寺が建てられ、そこに教如上人が招かれます。

これによって京都の地に、本願寺が2つあるということになります。

結果、准如上人の七条堀川にある本願寺が西本願寺、教如上人の七条烏丸にある本願寺が東本願寺と呼ばれるようになったのです。

ここで重要なことは本願寺の勢力は2つに分かれることになりましたが、喧嘩別れの形ではない、ということです。

東本願寺の創建(東京本願寺)

参照:東本願寺 公式サイト

1591年、教如上人は江戸神田に光瑞寺(こうずいじ)を創建しました。

このお寺は江戸における本願寺の録所(ろくしょ:出張所のようなもの)となり、また一説には1603年の創建とも言われています。

1609年に同じ神田内の広い土地へと移るも、度重なる火災の影響で焼失し、浅草へと移転しました。

以降、浅草本願寺という名前に変わります。(火災以前にあった浅草本願寺は築地へと移転し、それが現在の築地本願寺となります。)

1965年(昭和40年)に、現在の東京本願寺へと改称されます。




まとめ

ここまで見て下さってありがとうございました。

東本願寺(東京本願寺)について簡単にまとめさせていただくと、

・法然上人と師弟関係にあった親鸞聖人が浄土真宗の開祖

・度重なる戦乱に巻き込まれるも、2つの派に分かれ現在も本願寺は残っている

・2つの派(東本願寺派と西本願寺派)に分かれるも、喧嘩別れという形ではない

といったところでしょうか。

東本願寺はこれまで記事にさせて頂いたお寺の中でも、特に歴史が深く、書きごたえがあるお寺でした!(どのお寺にも優劣なんかなく、歴史は深いですが!)

そのため、複雑なところも多々あったと思われます。

皆さんに東本願寺の歴史を少しでも知って頂けたのなら、幸いです!

それではここまでホントにありがとうございました。

ジャネバーイ!

浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺
住所:東京都台東区西浅草1-5-5
電話番号:03-3843-9511

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ライター紹介

メッシンタ

めぐり部/フリーライター

年齢/20歳。学歴/現役大学生。趣味/サッカーすることとサッカー観戦。性格/素直。 夢/死ぬまでにイングランドのリバプールに行ってホームスタジアム・アンフィールドで生観戦すること。 後はお金持ちの妻子持ちになること。
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