【上野×徳川家】徳川家康の側近天海大僧正に、両大師を祀る輪王寺┃東京都内で唯一の門跡寺院!
フーテミッターフ!
皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!
今回は江戸時代に関するテーマということで、オランダ語の挨拶にて登場です!
【上野×徳川家】シリーズも、今回で第8弾目となりました。
如何に上野と徳川家の繋がりが深いか、分かりますよね。
今回も例に漏れず、徳川家との関係が深いので、期待して損なしですよ!
それでは本編へ!
輪王寺の成り立ちと天海大僧正(てんかいだいそうじょう)
1644年(正保元年)、前年に亡くなった天海大僧正(てんかいだいそうじょう)を祀る開山堂(かいざんどう:仏教寺院において開山の像を祀った堂のこと。)として、輪王寺は創建されました。
天海大僧正は徳川家康の側近で、朝廷政策や宗教政策の分野で活躍しました。
また江戸の街を作った人物の1人でもあります。
台東区内では、上野という街全体を作った人物と言っても過言ではありません。
徳川家の菩提寺(ぼだいじ:先祖の墓があり、死後の冥福を祈るお寺のこと。 )である、寛永寺(かんえいじ)を創建した人物です。
この寛永寺を始め、上野東照宮や不忍池及び弁天堂なども建てています。
天海大僧正は江戸の街を作るにあたり、京都の地を意識しました。
結果、江戸城(現在の皇居)から見て北東にある、上野の地が天海大僧正によって念入りに作られたのです。
ところで皆さん、天海大僧正は明智光秀(あけちみつひで)と同一人物なのではないかと言われているのをご存知でしょうか。
有名な逸話ですので、ご存知の方も多いかもしれませんね。
あくまでも諸説ありますので与太話だと思って聞いてください。
明智光秀の最期は皆さんもご存知の通り、本能寺の変後、後の天下人羽柴秀吉(はしばひでよし:後の豊臣秀吉)との戦い(山崎の戦い)に敗れ、敗走します。
その敗走している最中に落ち武者狩り(おちむしゃがり:戦に敗れた侍を倒し、領主などに首を渡すことで褒美を貰えた。)に遭い、竹槍(たけやり)で刺され、亡くなったと言われています。
ただこの最期の話は確たる証拠がないとも言われているのです。
一方、天海大僧正はどこで生まれたか、など詳細記録が残っていないのです。
そのため天海大僧正は、羽柴秀吉との戦いに敗れ敗走した、明智光秀なのではないか、と言われているのです。
その他にもあまりにも共通点が多く、「これはもう明智光秀だろう!」と考えられています。
輪王寺の歴史
1644年に建てられた輪王寺ですが、創建当初は「輪王寺」という名のお寺は存在しなかったのです。
元々は東叡山寛永寺の伽藍(がらん:僧侶が集まり住み、修行等をするところ。)の一部とされていました。
その後、寛永寺本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師像(じけいだいしぞう)を移し、慈恵大師と合わせて慈眼大師(じげんだいし)を祀ったことから、両大師(りょうだいし)と呼ばれ、親しまれました。
1654年、後水尾天皇(ごみずのおてんのう:当時の天皇陛下のこと。)の第3皇子守澄法親王(しゅちょうほうしんのう)が寛永寺の第3代貫主(かんしゅ、かんす:最上位の人)に就任。
この守澄法親王が、東叡山(寛永寺の山号)、日光山、1655年には天台座主(比叡山)の三山を兼帯(けんたい:2つ以上の用を兼ねること。)しました。
そして守澄法親王に輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が与えられると、江戸時代幕末まで皇族が関東に下向(げこう:都(京都)から地方へ行くこと。)し、代々輪王寺宮を継承しました。
しかし、江戸時代幕末に戊辰戦争(上野戦争)によって寛永寺の諸堂は焼失。
また輪王寺宮も、最後の輪王寺宮となった第15代公現法親王(くげんほうしんのう)が還俗(げんぞく:僧侶が俗人、要は一般人になること。)したことで、途絶えてしまいます。
この状況を惜しんだ東叡山、日光山からの要請により、1883年、この両山に輪王寺という名のお寺が再興されました。(日光山輪王寺と今回のテーマである東叡山輪王寺の2つ。)
その2年後の1885年には門跡寺院としての再興も許され、東京都で唯一の門跡寺院となり、現在に至ります。
まとめ
ここまで見て下さってありがとうございました。
輪王寺について簡単にまとめさせていただくと、
・徳川家康の側近で、江戸の街を開発した天海大僧正を祀る
・慈恵大師と慈眼大師を祀っており、両大師と呼ばれ親しまれてきた
・東京都内唯一の門跡寺院であり、一時途絶するも再興し現在に至る
といったところでしょうか。
今回も上野という地域の例に漏れず、徳川家との関係が深かったですね。
皆さんも是非足を運んでみて下さい!
それではここまでホントにありがとうございました。
ジャネバーイ!
東叡山輪王寺(別称:開山堂、両大師)
住所:東京都台東区上野公園14-14
電話番号:03-3821-4050