【泪橋】実物を見る大切さがわかる一冊「解体新書」と小塚原刑場の関係とは?
こんにちは、とくらです。
実は、昨年盲腸で入院したことがあったのですが、不思議とお腹が痛いだけでなく気持ち悪くなったり、胃が痛かったりと、自分が思う「盲腸」の部分だけが痛いだけではないことに驚きました。
現代に生きる私たちは、「盲腸」と言われると、なんとなくどのあたりにあるどんな形の場所か想像がつきますよね。
しかし、江戸時代にある本が執筆されるまで、人間の臓器がどんなものかということを一般の人は知るすべもなかったのです。
その本とは、「解体新書」。
杉田玄白が書いたことで有名なこの医学書が、江戸時代の人々に与えた影響はとても大きなものでした。
さて、今回は解体新書と、この本を書き記すために非常に重要になったとある場所について少しご紹介します。
解体新書とは
「解体新書」は、1774年(安永4年)に発行された解剖学書です。
ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの医学書「ターヘルアナトミア(これは日本語での通称です)」を主な底本として、日本人が西洋医学書を日本語に翻訳しました。
医師であり蘭学者の前野良沢が翻訳し、蘭学医の杉田玄白が清書、挿絵を小田野直武が担当しています。
前野良沢、杉田玄白はなぜ解体新書を書くに至ったのでしょうか?
実は、日本で初めて人体解剖に医師が挑んだのは1754年、山脇東洋という漢方医だとされています。
これは解体新書が刊行されるつい20年前のこと。
この頃の日本では、儒教の教えから人の体に刃物を入れる行為は人道に背いた行為だと考えられており、人体解剖が一般的に行われていなかったのです。
そのため、一般庶民はもちろん、医師ですら人の体がいったいどうなっているのかを詳しく知る術がほとんどありませんでした。
そんな中、オランダから解剖学書「ターヘル・アナトミア」が日本にやってきます。
漢方医学が中心であった当時、解剖図といえば「五臓六腑人体内景図」という、現代の私たちから見るととても正確とは思えないものでした。
「ターヘルアナトミア」と「五臓六腑人体内景図」のあまりの違いに疑問を持った蘭学医の杉田玄白・前野良沢・中川淳庵。
幕府に願い出て、小塚原刑場で処刑された人の腑分けを見学できることになります。
すると、実際の解剖と見比べてあまりにも正確であることに驚き、これを翻訳しようということになりました。
しかし、前野良沢は、長崎でオランダ語の蘭学を学んでいたものの、当時は辞書すらありません。
翻訳するのも一苦労で、誤訳も多く、杉田玄白らはこのまま不完全な書を世に出すのかどうか、という葛藤を抱えました。
しかし、スピードを優先し、翻訳作業を始めてから3年半後の1774年、解体新書は出版されたのです。
解体新書においては、翻訳もさることながら、人体の各部位を精緻に描いた挿絵も非常に重要な要素であることは間違いありません。
この挿絵を描いたのが平賀源内から洋画を学んだ「小田野直武」という人物です。
杉田玄白と平賀源内は親友であったため、その縁で小田野直武に声がかかったのではないでしょうか。
直武の描いた図版は西洋画の技術を取り入れ、陰影表現を用いて描かれていることが特徴的です。
とても精密で、解体新書の予告編「解体約図」の挿絵よりも優れているように見えますが、直武本人は、解体新書の序文で「下手なんですが、断りきれずに描きました…」というようなことを書いてしまう謙虚な画家でした。
当時もし私が解体新書を手にしていたら、この一文だけで直武の大ファンになっていたことでしょう。
解体新書が刊行されると、医学の発展はもちろんのことですが、オランダ語への理解や、鎖国中の日本で西洋の物事を理解する下地ができることとなり、この意味でも解体新書は非常に重要な書物となりました。
解体新書は東京国立博物館のデジタルライブラリーでも無料で見ることができます。
実際に読んでみると、江戸時代の医師たちの熱意をひしひしと感じることができるはずです。
泪橋交差点
さて、かつて、台東区と荒川区の境には、泪橋という橋がかかっていました。
現在、泪橋を見ることはできませんが、交差点にその名を残しています。
台東区から荒川区にかかったこの橋に、なぜ「泪橋」という名前が付いたのでしょうか?
これは、橋を渡った先には、あの江戸時代の刑場「小塚原刑場」があったことに由来しています。
泪橋は、罪人にとってはこの世で最後の景色を見る場所であり、親族や身内のものにとっては、処刑者との別れの場所。
お互いにこの橋の上で泪を流したことから、この名がつけられました。
渡ってしまえばもう二度と会うことができない橋、とても多くの涙が流されたことでしょう。
この橋を渡った先で、死罪となった人々が腑分けされ、その後の日本の医学の発展に大きな影響を及ぼしたと思うと、死と生との不思議な関係を思わされます。
まとめ
人の体がどうなっているのか、というのは当たり前のことですが切り開いて見てみるまで実際の様子は分かりません。
医師がこの解剖を見ることができたのは、江戸時代では処刑場であった、というのが驚きです。
また、当時自分が教科書にしていた本が全く間違ったものだと分かった時の衝撃はどれほどだったでしょうか。
自分の知識が誤っているのではないかと気付いてすぐに真実を確認しにいく姿勢は本当に素晴らしいですよね。
解体新書を発刊した当時の彼らに倣い、実際に自分の目で見て確認するということを改めて大切にしていきたいと思います。