【東京藝大】スキャンダルで失脚?天才・岡倉天心の生涯とは
こんにちは、とくらです。
台東区には数々の芸術家を輩出した名門・東京藝術大学があります。
この東京藝術大学の前身を設立した人物と言えば「岡倉天心」ですよね。
歴史の授業ではお雇い外国人フェノロサとセットで覚えた人も多いのではないでしょうか?
今回は、名前は知っているけれど、意外と知らない岡倉天心の天才性を少しご紹介したいと思います。
岡倉天心の出生
岡倉天心は、1863年に横浜で生まれました。本名は岡倉覚三といいます。
父はもともと福井藩の下級藩士でしたが、藩の命令で武士を辞めることとなり、貿易商を始めます。
この商店の角の倉で生まれたことから、生まれたときには「角蔵」と名付けられました。
厩都の皇子のシステム…!
この後「覚三」と改めますが、天心と呼ばれることはほとんどなく、自己紹介でも本名の覚三を名乗ることが多かったようです。
教科書でも、メディア作品でも岡倉天心として知られているのに、生前にはあまり使われていなかった名前というのは意外ですよね。
父が貿易商をしていたため、西洋人との交流も多く、幼少から英語に親しんでいた天心でしたが、9歳の頃から英語塾では英語を学び、海外での活躍への基盤を作っていくことになりました。
後に海外で活躍し英語で著書を残すなど、語学に堪能であった天心の土台は幼少期の体験にあったんですね…
ちなみに、弟の岡倉由三郎は英語学者になっており、ラジオでの英語講座を最初に行った人物だそう。
今でこそ英会話教室に通っている子どもも多いですが、この時代に兄弟で英語が得意というのは珍しいですよね。
フェノロサとの出会い
12歳になると、父の仕事の都合で東京に引っ越すことになりました。
その後、14歳で東京開成学校(現在の東京大学)に給費生(学費が支給される学生)として入学します。
これは、優秀としか言いようがないですね。
東京大学在学中、外国人教師としてやってきたアーネスト・フェノロサに出会います。
ここで、フェノロサの日本美術研究を手伝ったことが人生の大きな転換点となりました。
それまで大学では政治学・理財学を学んでいた天心でしたが、英語が得意であったことからフェノロサの美術品収集を補助することになったのです。
岡倉天心が英語苦手だったらこの出会いはなかったのかと思うと、歴史ってちょっとした違いで大きく変わってしまうのを感じますよね…
この頃の天心は、文人画にハマり、英文学を読みふけり、学内ではかなり浮いた人物だったそう。
確かに政治学部でめちゃくちゃ文学に傾倒して美術品収集してる人はちょっと変わった人だと思われるかもしれません。
しかし、優秀な人物が集まる学校の中でもめちゃくちゃ頭いいとされてる人が、学部の勉強にとどまらず自分の面白いと思ったことに突っ走れる、というのはとても良いですよね。
周囲から奇異な目で見られたとしても、好きなことを突き詰められたのも天心の才能の一つかもしれません。
その後天心は18歳で結婚し、翌年大学を卒業し文部省へと入官することになります。
古美術調査
文部省に命じられて、天心はフェノロサと共に古美術調査を行うことになりました。
日本にある仏像等の美術品が破壊されたり海外に流出することで失われていくという事態が起こっており、これを保護するための活動でした。
明治時代になり、神道の国教化政策のために、新政府が出した神仏分離令により、廃仏棄釈が盛んになっていたのです。
古美術調査を進める明治17年、天心とフェノロサは、拒む僧侶を何とか説得して法隆寺夢殿を開扉して約200年ぶりに秘仏を開帳してもらうことに。
天心はここでの驚きを「一生の最快事なりというべし」と語り、その後更に文化財保護への情熱を燃やしていきました。
僧侶としては、「これはかなりややこしい人が来てしまった…」と思ったことでしょうが、現在私たちが多くの古美術作品を目にすることができるのも、この体験があったからこそと言えるかもしれません。
東京藝術大学の設立
明治19年、文部省の美術取調委員としてフェノロサと共に西洋を巡っていた天心ですが、翌年帰国すると早々に東京美術学校(現在の東京藝術大学)の幹事を任されることとなりました。
明治23年に学校が設立されると、29歳にして校長を務めることに。
めちゃくちゃ若い校長先生ですね!人生の密度と速度がすごい。
意外なことですが、東京美術学校の初代校長は天心ではありませんでした。
実は初代校長は浜尾新という行政官でした。
おそらく一旦事務的な役職として校長職に居たのではないでしょうか。
当時の天心は東京美術学校の校長をしながら、帝国博物館の美術部長も兼任していました。
また同時に、現在も刊行されている美術専門誌『国華』を創刊するなど大忙しです。
幼いころから優秀だったとはいえ、これだけ多くのことを同時に動かす能力…
毎日てんやわんやの私、これは爪の垢を煎じて飲みたいですね。
美術学校騒動
日本の美術界で大活躍を見せ、順風満帆かと思われた天心ですが、明治31年、美術学校騒動によって失脚してしまいます。
まず、帝国博物館の美術部長を解任され、その後新聞に不倫のスキャンダルが掲載されたことから天心は東京美術学校の校長も辞職することとなりました。
天心が学校を追い出された形となったことに、当時の教師たちは猛反発。
全員で一斉に辞職することを決めたのです。
次の校長によって留意され一部の教師は学校に残ることになりましたが、日本の美術界は大騒ぎとなりました。
この時37歳だった天心。
人生初の挫折に天心の心中はいかばかりだったでしょうか。
しかし、こんな状況でも着いてきてくれる教え子や同志たちの存在が彼を支えることとなりました。
ほどなく、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らとともに美術団体・日本美術院を創設します。
開院式は台東区谷中で行われ、現在でも公益財団法人・日本美術院として活動を続けています。
立ち上げたはいいものの、当時経営難を抱えていた日本美術院を残し、天心は一人インドに旅立ちます。
その経験から『東洋の理想』を書き上げ、明治36年にイギリスで出版されました。
明治39年には『茶の本』を出版しますが、こちらも英文で、邦訳されると国内でも評判に。
天心が何かを論じる文章を書くときは英語の方が向いていたんでしょうね。
帰国後は茨城県五浦に居を移し、52歳の時、病が悪化しこの世を去りました。
現在天心は、豊島区駒込の染井墓地に眠っています。
周囲からは天才と呼ばれて、人間関係もトラブルになりがちで中々落ち着かない人生だったかもしれません。
しかし、家族や弟子に看取られる最期は幸せであったかもしれませんね。
岡倉天心記念公園
岡倉天心記念公園は、岡倉天心の旧居跡です。
天心は移り住んだ五浦に、みずからの設計で六角堂を建築し、終生を過ごしました。
公園内には五浦の六角堂を模した建物が建っており、六角堂の中には岡倉天心胸像が安置されています。
公園内にはいたるところに「六角形」が隠されているので、訪れた際には隠れ六角形探しをお忘れなく。
トイレまで六角形で作られていますよ!
住所:東京都台東区谷中5丁目7−10
アクセス:東京メトロ千代田線【千駄木駅】徒歩5分
まとめ
幼少期から優秀で、美術の世界でも天才と評されていた天心がスキャンダルで失脚するというエピソードはなんだか寓話的ですよね。
台東区を越え、日本の芸術文化を大きく動かした人物を知ることで、一層美術への関心も深まるのではないでしょうか。