9社寺まわってご利益をGET。「浅草名所(などころ)七福神巡り」の歴史探訪レポ⑨石浜神社

石浜神社
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浅草で運気を上げるパワースポットである「浅草名所七福神」。

巡拝コース周辺の歴史の面影を探り、それぞれの見どころを紹介していくこの企画を始め、今回で最後の9カ所めとなりました。

8カ所めの記事で紹介したのは、浅草寺から徒歩25分の「橋場不動尊」。

7カ所めの「今戸神社」から向かう道の途中には、小さな商店や工房が立ち並んでいて下町の雰囲気を楽しめますし、伝説の残る旧跡もあって退屈しない道のりでした。


規模は小さめな橋場不動尊ですが、江戸時代の人々が行き交う隅田川の目印となった大銀杏があったり、江戸時代の建築物である本堂があったりと、当時の佇まいを感じることができる場所でした。


さて、「浅草名所七福神」最後の9カ所めとなる「石浜神社」は、巡拝コース唯一の台東区外で、橋場不動尊から徒歩数分。

白髭橋を境目に台東区と荒川区に分かれ、荒川区に入ったところにあります。
長い歴史を有し、隅田川を一望する江戸の名所として今日(こんにち)までこの地を見守ってきました。

今回もその見どころと、すぐ近くにある江戸の大発明家の墓地まで、江戸の面影を辿りに寄ってみたいと思います。

どうぞ最後までお付き合い下さい。


橋場不動尊から歩き数分、白髭橋に到着。
手前が台東区、奥が荒川区になります。


白髭橋の手前にあるのは「明治天皇行幸對鴎荘碑」。

ここにはかつて、「対鴎荘」として、日本最後の太政大臣であった三条実美の別邸がありました。
征韓論をめぐって政府内に対立が続いていた頃、心労のあまり病に倒れた三条は、この別邸で静養していました。

病床の三条を気遣い、明治天皇がこの邸を訪れたことを顕彰して建立されたものになります。
(対鴎荘は後に多摩市連光寺に移築)


横断歩道を渡りすぐ、荒川区に入って、「石浜神社」に到着。
「石浜神社」は、七福神の中で「寿老人」を祀っています。
「浅草名所七福神」では鷲神社と同じで、長寿延命を主とした福徳の神様です。


参道周辺の舗装がかなり新しくて驚きました。



神社に入ると、左手に2020年12月末にオープンしたお茶屋さんがあります。

実は、「石浜神社」は茶屋としての歴史も長く、「石浜神社」に合祀された真先稲荷神社の門前には、戯作者の滝沢馬琴や江戸の食通もうなるほど有名な豆腐田楽を売る茶屋が立ち並び、多くの参拝客で賑わっていたそうです。

令和6年に神社が記念の年を迎えるのに伴い、その頃の賑わいを現代によみがえらせたいとの思いでオープンしたのだとか。
訪れた日は定休日だったようで、残念ながらお店を覗くことはできませんでした。
テイクアウトでは色々な飲み物が販売しているようですね。



「石浜神社」の起源は奈良時代にさかのぼり、神亀元年(724年)に創建。

中世の石浜城跡(室町中期~天正年間にあった、戦国大名千葉氏の支城)の有力候補地の一つでもあり、源頼朝・千葉氏・宇都宮氏など関東の武将の信仰が篤かったとされています。

1780年に建てられた第一鳥居は荒川区登録有形文化財。

一般的な神明鳥居系の鳥居は、笠木と呼ばれる一番上の横棒の断面が円形(陵墓鳥居、靖国鳥居、鹿島鳥居など)か五角形(伊勢鳥居)です。
一方、「石浜神社」の鳥居は笠木の断面がカマボコ型で、非常に珍しく、石浜鳥居とも呼ばれています。


1749年建立の第二鳥居も荒川区登録有形文化財として指定されています。



こちらは、左から招来稲荷神社、白狐祠、富士遥拝所。
富士遥拝所の前にある鳥居も、額束のある、笠木がカマボコ型の石浜鳥居。
富士遥拝所は、富士塚のように富士山の溶岩である、黒ボクと思われる石が3mほど積み上げられています。

正面には富士山遙拝所の標柱が建っており、1758年には富士講があってもとの富士塚が築かれていたと考えられるとのこと。



この富士塚の右端に「富士講関係石造物群」と記された荒川区の説明が建てられています。


その説明によると、もともと富士眺望の名所で富士塚が江戸時代につくられたようです。
この富士塚は昭和63(1988)年の隅田川スーパー堤防建設の際に新造されたもののようです。


こちらは日本大工祖神の碑。

大工祖神は麁香様(あらかさま)のことで、本碑は鹿香神社に寄せる職方信仰の象徴です。1857年に真先稲荷5回目の開帳の年に建立されました。


境内には歴史を感じる建物が多いですね。



第二鳥居をくぐり参道拝殿寄りの左手にあるのは、亀田鵬斎の墓。

碑面には、下町の名物儒学者鵬斎73歳の折の作、隅田川の詩2首が刻まれています。石浜城や頼朝、道灌の歴史のあとを切々と偲ぶ名詩です。

作者は、1752年に神田生まれで、博識多才、書画に秀でた江戸後期異色の文人墨客で、浅草周辺、当社付近の隅田川とその岸の詩情を限りなく愛した人。



こちらの都鳥歌碑は、正面に、平安初期の名門貴族、漂泊の歌人業平(なりひら)が京の都を捨て、はるばる大川のほとりに流れ来て、川面(かわも)の都鳥を目にした時の望郷の思いを綴ったという『伊勢物語、東下り』の一節が記されています。建立は文化2年(1805)です。


「名にし負はば いさこととはん 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと」


本社社殿の手前に見える小社が麁香神社。

江戸時代末期に建造されたもので、荒川区登録有形文化財です。
ご祭神は、手置帆負命(たおきほおいのみこと)・彦狭知命(ひこさしりのみこと)の二柱、家室(いえむろ:家屋敷)の土台の守り神、さらには木匠の始祖として、安永8年(1779)の8月8日鎮座されました。いわば、家づくり、ものづくりの神様です。

職方、職人のためのご祭神は、他に類例の少ないところから、江戸末期以来大いに近隣諸職の信仰と人気を呼びました。



1926年に「石浜神社」に合祀された真先稲荷神社は、かつて石浜城城主となった千葉之介守胤が、ここに一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の、尊い宝珠を奉納安置申して以来、真先かける武功という意味にちなみ、真先稲荷として世に知られました。

江戸神社、北野神社、妙義八幡神社を祀っています。



初穂料500円を納めて戴いた、「石浜神社」の御朱印はこちら。



さて、「石浜神社」をあとにして、向かうは江戸の偉人の墓所。

再び白髭橋を超えて台東区の方へ戻ります。
偉人の墓所があるのは住宅街の中。


橋場不動尊との中間地点へ戻り、区画が整備された長屋の面影のある家々の中に、旧跡があるらしいのですが…

ガイドブック等にあるようになかなかたどり着けません(笑)。
来た道を戻りながら歩いていると、これかな?と思うスポットを発見。



江戸時代の面影を残す築地塀に守られ、眠っているのは江戸時代中期~後期に活躍した発明家の平賀源内。

エレキテルや、源内焼き・寒温計などの発明で著名でありながら、本草学者、科学者、戯作者としても功績を残し、浄瑠璃本、また洋画なども手がけ、司馬江漢らに影響を与えました。
殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で獄死した源内は、この場所にあった総泉寺に葬られたといい、総泉寺が板橋区小豆沢に移転した後も墓はこの場に留まり、昭和18年に国史跡に指定されました。

墓は、開錠している間は誰でも入ることができるそうです。
閂を外して入れますが、帰りは元に戻すことを忘れずに。



園内は緑が生い茂り、時代劇に出てきそうな、江戸の雰囲気を保っています。

墓石には平賀源内の名が刻まれています。
本当にあの偉人のお墓なのですね…。


源内が生まれた旧高松藩最後の藩主の息子である松平頼寿伯爵(後の貴族院議長)の額文があります。

源内の没後150年の節目、1929年に発足した平賀源内先生顕彰会の会長も松平頼寿伯爵だそうです。

源内の父親は藩の蔵番を努める下級家臣でしたが、当時の藩主、つまり松平頼寿伯爵の先祖が平賀源内を登用し、長崎に遊学させるなど源内を支援したことなどから縁があったようですね。



今回は「浅草名所七福神」唯一の台東区外である「石浜神社」を参拝し、9カ所ある「浅草名所七福神」の巡拝コースも今回ですべて回り終えました。

巡拝する寺社の行く道行く道に、歴史を感じる色々なドラマが今も残っているのを、読んで下さった方ならわかって頂けるかと思います。

最後までお付き合い下さりありがとうございました。

皆さんが楽しく「浅草名所七福神」を巡ることが出来ますように。

石浜神社
住所:東京都荒川区南千住3-28-58
時間:御朱印は9:00~16:00
アクセス:南千住駅より徒歩15分
公式HP



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ライター紹介

くまりら

インタビュアー、ライター

93年生。縁あって、前職では有名少年漫画作品の編集をいくつか担当。 歴史ロマンのあるもの、美味しい食べ物、韓国アイドル、エンタメが好き。
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