大河ドラマ『どうする家康』放送中!徳川家康ってどんな人物?徳川家所縁スポット9選(寛永寺、上野東照宮、浅草寺など)
フーテミッターフ!
皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!
現在、NHKの大河ドラマでは「どうする家康」が放送されています。
主人公は日本人では知らない人がいないほど有名な戦国武将、徳川家康です。
徳川家康が主人公なこと、徳川家康役を松本潤さんが務めていることも注目を集める理由になっていますよね。
徳川家康が江戸で幕府を開いたのは皆さんもご存知かと思いますが、実は台東区とも関わりが深い人物なのです!(徳川家自体も)
今回は、徳川家康(徳川家)と台東区の関わりがあるスポットをご紹介したいと思います。
それでは本編へ!
目次
徳川家康とは
後に「徳川家康」となる竹千代は1542年に、三河国(現在の愛知県東部)の岡崎城にて誕生します。
幼少年時代の竹千代は、今川氏に人質に出され(一時期織田家にも)、故郷である三河国で過ごすことはほとんどありませんでした。
竹千代は1555年、数えで14歳という若さで元服し、人質先の今川氏当主の今川義元から一字貰い(偏諱)、松平元信(後に元康)と名乗ります。
さらに、今川氏一門衆の関口家から「瀬名姫」を嫁に貰い、元康は今川氏の一門衆に迎え入れられました。
これは元康の故郷である三河国で、最大勢力を誇っていた松平宗家の当主である元康を今川氏の一門衆に迎え入れることで、三河国を今川氏の勢力圏に組み込む狙いがあったと考えられます。
そんな中1560年、元康は桶狭間の戦いで今川方として参戦し、この戦いは織田信長の奇襲によって織田家が勝利します。
以降の今川氏は没落の一途を辿って、元康は今川氏からの独立を図り(1561年)、織田信長と同盟を結びました(1562年)。
この際に元康は名を改め、「徳川家康」となります(1566年)。
この一連の家康の動きは、義元亡き後今川氏の当主を継いだ氏真にとって予想外且つ痛恨の出来事で、後に大名家としての今川氏は滅びます。(一門衆に迎えられていた家康の裏切りという点)
その後の家康は、信長が本能寺の変で討たれるまで、織田家とともに戦国時代を戦いました。(1570年:姉川の戦い、1572年:三方ヶ原の戦い、1575年:長篠の戦い、1582年:甲州征伐など)
本能寺の変で信長が亡くなった当時の家康は、東海甲信五か国の太守(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)で、当時の日本で屈指の大名となっていました。
そんな家康は豊臣秀吉(この時はまだ羽柴秀吉)からも警戒される大名で、1584年には小牧・長久手の戦いを行いました。(戦いは家康が制すものの、勝負には秀吉が勝ったと言える)
小牧・長久手の戦い以降、家康は秀吉に臣従し、五大老として豊臣政権内で重要な役割を担いました。
秀吉が亡くなると家康は天下を獲るために動き始め、1600年、関ヶ原の戦いを行い勝利します。
その後1603年に、家康は征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きます。
1614年、1615年と大坂の陣にて豊臣氏を滅ぼすことで、後顧の憂いを無くし、徳川家の天下の安泰に努めました。
1616年、数えで75歳を迎えた家康はついに亡くなります。
戦国時代の最期の勝者である家康の生涯を振り返るだけでも、とても濃いエピソードだらけでしたね!
そんな天下人の家康には、付き従う家臣団の面々も豪華の一言に尽きます。
この4名の家臣は、徳川四天王と呼ばれ、家康に従う数々の家臣の中でも特に名声や貢献度が高かったとされています。
酒井忠次は、家康の父である松平広忠の代から仕え、今川氏へ人質に出された際にも家康に付き従った徳川家内でも重臣中の重臣となります。
本多忠勝は、「家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭に 本田平八」と称されるほどの人物で、忠勝が如何に優れた武将だったかを端的に表しています。
榊原康政は、姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦いをはじめに数々の合戦に付き従った、武勇に優れた武将でした。
井伊直政は、真紅の甲冑を纏う「赤備え」と呼ばれる部隊を率いた猛将で、直政自身も「井伊の赤鬼」と畏怖を込め、呼ばれていました。
服部半蔵は徳川十六神将の1人で、伊賀忍者の代表的人物です。
服部半蔵という名前は、伊賀の上忍三家の1つである服部家の当主が代々名乗る名前で、世間的に知られている服部半蔵は「服部正成」となります。
本多正信は、一度は家康と敵対し出奔するも、後に許され帰参しました。
参謀として仕え、重用されたと言われており、主君家康からは「友」と称されるほどの人物でした。
台東区徳川家所縁スポット上野編
寛永寺
最初に紹介するのは、上野にある「東叡山寛永寺」です。
寛永寺は、1625年に家康の側近で、僧侶であった天海大僧正によって創建されました。
この天海という僧侶は上野周辺をはじめ、徳川家の寺社関係の話に必ず出てくると言っても過言ではない人物です。
寛永寺は徳川将軍家の菩提寺となっており、第4代将軍徳川家綱・5代綱吉・8代吉宗・10代家治・11代家斉・13代家定の、計6名もの将軍が葬られています。(菩提寺:先祖代々を弔う寺院のこと。)
東叡山寛永寺
住所:東京都台東区上野桜木1-14-11
徳川歴代将軍御霊廟
続いて紹介するのは、「徳川歴代将軍御霊廟」です。
徳川家の御霊廟には、先ほど寛永寺の説明で出てきた6名の将軍が眠っています。
厳有院霊廟勅額門がある霊廟に、4代家綱・10代家治・11代家斉が合祀されています。
一方で、常憲院霊廟勅額門がある霊廟には、5代綱吉・8代吉宗・13代家定が合祀されています。
また徳川歴代将軍御霊廟をはじめ、この後紹介する上野公園内にあるものは、江戸時代の頃は全て寛永寺の境内でした。
徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の権勢が窺えますね!
上野東照宮
続いて紹介するのは、「上野東照宮」です。
現在ある社殿は、第3代将軍徳川家光によって造営替えされたものとなります。
上野東照宮では、初代将軍徳川家康・8代吉宗・15代慶喜の3名が祀られています。
上野東照宮は、3代将軍家光が日光東照宮に行けない人のために、近場に参拝できる神社を作ろうという目的のもと建立されました。
昔は、現代ほど簡単に旅など出来なかったですからね。
そのため上野東照宮の社殿は、日光東照宮のように黄金に輝いていますが、一方で境内は静かな空間となっています。
上野東照宮
住所:東京都台東区上野公園9-88
清水観音堂
続いて紹介するのは、「清水観音堂」です。
清水観音堂も、もとは寛永寺の境内にあったものの1つで、寛永寺と同じように天海によって、1631年に建立されました。
清水観音堂は、天海が上野一帯を京都周辺に見立てた構想の下、建てられました。
東叡山寛永寺は、京都の守護を司る「比叡山延暦寺」を、清水観音堂は「清水寺」をモデルに創建されています。
写真を見て頂ければ分かるように、清水寺と同じで舞台造りとなっていますよね!
清水観音堂
住所:東京都台東区上野公園1-29
不忍池&辯天堂
続いて紹介するのは、「不忍池&辯天堂」です。
不忍池自体は平安時代の頃から存在していたとされていますが、不忍池も天海によって琵琶湖になぞらえられました。
琵琶湖の湖上には竹生島と呼ばれる島があり、そこには弁天様が祀られていました。
天海は、この弁天様も同様になぞらえるために、不忍池に辯天堂を建立したそうです。
不忍池
住所:東京都台東区上野公園5-20
不忍池辯天堂
住所:東京都台東区上野公園2-1
輪王寺
続いて紹介するのは、「輪王寺」です。
輪王寺は、1644年、前年に亡くなった天海を祀る開山堂として、創建されました。
また輪王寺には、慈恵大師像と慈眼大師像が祀られていることから、「両大師」と呼ばれ、親しまれてきました。
ちなみに、先ほどから何度も話に出てくる天海ですが、一説では「明智光秀」なんじゃないかと言われています!(諸説あり)
その天海によって上野周辺の街が開発されました。(徳川家康の側近で、宗教・朝廷政策を主に担当し、2代将軍秀忠・3代家光にも仕えた。)
東叡山輪王寺
住所:東京都台東区上野公園14-14
台東区徳川家所縁スポット谷中編
谷中霊園
続いて紹介するのは、上野から移って谷中にある「谷中霊園」です。
谷中霊園は1874年、天王寺の境内を一部割き、東京府最初の共同墓地として誕生しました。
誕生当初の背景から、谷中霊園と呼ばれる一帯には天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれます。
また谷中霊園は、多くの著名人が眠る霊園として有名です。
第15代将軍徳川慶喜をはじめに、徳川御三卿と呼ばれる清水家、田安家、一橋家の歴代当主も、谷中霊園で眠りについています。 その他にも渋沢栄一や鳩山一郎なども埋葬されています。
谷中霊園
住所:東京都台東区谷中7-5-24
瑞輪寺
続いて紹介するのは、「瑞輪寺」です。
瑞輪寺は、慈雲院日新上人と呼ばれる僧侶によって、1591年に創建されます。
当初は日本橋の馬喰町に創建されましたが、類焼の被害に遭い、1601年に神田の地へ移転、その後またも類焼の被害に遭い、1649年に現在の谷中の地に建てられました。
日新は、幼少年時代の家康の学問教育の師範で、家康はこの恩に報いるために、瑞輪寺の創建に尽力したと言われています。
瑞輪寺はその他にも徳川家との繋がりを表すものがあり、それが境内にある鐘楼堂(しょうろうどう)となります。(他には境内に徳川家所縁の寺社の証である、徳川家家紋の「葵紋」の使用が許されている。)
この鐘は第3代将軍徳川家光の寄進によって、建てられました。
瑞輪寺
住所:東京都台東区谷中4-2-5
浅草寺
最後に紹介するのは、谷中から浅草に移って、「浅草寺」となります。
観光名所として、日本でも世界でも有名な浅草寺。
そんな浅草寺も、実は徳川家と所縁あるスポットとなっております。
徳川家と浅草寺の関係は、1590年、豊臣秀吉による小田原征伐(小田原城の戦い)の後に徳川家康が関東に移封したことから始まります。
移封後、家康は天海の進言もあり、浅草寺を祈願所として定めたのだとか。
そんな家康は天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに先立ち、1600年、浅草寺にて戦勝の祈祷をお願いしたそうです。
浅草寺
住所:東京都台東区浅草2-3-1
まとめ
ここまで見て下さってありがとうございました。
本記事について簡単にまとめさせていただくと、
・江戸幕府初代将軍の徳川家康は、幼少期ほとんど故郷である三河国で過ごすことはなく、今川氏の一門衆に迎え入れられる
・桶狭間の戦い後、家康は今川氏から独立し、織田信長とともに戦い、本能寺の変後は豊臣秀吉に臣従する
・1600年、関ヶ原の戦いに勝利し、1603年、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く
・上野エリアでは徳川将軍家の菩提寺である寛永寺のかつての境内に、徳川家と所縁あるスポットがたくさんある(寛永寺、徳川歴代将軍御霊廟、上野東照宮、清水観音堂、不忍池&辯天堂、輪王寺)
・谷中、浅草エリアでも徳川家と所縁あるスポットがある(谷中霊園、瑞輪寺、浅草寺)
といったところでしょうか。
今回紹介したスポット以外にも、徳川家と所縁ある場所はたくさんありますので、是非台東区に足を運んでみて下さい!
どうする家康も最後の展開まで楽しみです!
それではここまでホントにありがとうございました。
ジャネバーイ!