瑞輪寺|江戸幕府とも関わりが!徳川家康に勉強を教えていたお坊さん?日新上人が開いた谷中の由緒あるお寺
フーテミッターフ!
皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!|
今回は徳川家康、江戸幕府とめちゃくちゃ関係のあるお話、お寺ということでオランダ語にてご挨拶を!
歴史系の記事を執筆するたびに思うんですけど、台東区って本当に歴史的建造物が多いですよね。
しかも徳川家と関係のある建物が多い印象です。
上野なんかが良い例ですよね。
寛永寺に始まり、上野東照宮、不忍池&辯天堂、清水観音堂とまだまだあります。
あ、ちなみにですがその上野と徳川家に関する記事はシリーズ化しており、既に幾つか執筆しているので是非見てみて下さい!
より一層、上野と徳川家、ひいては台東区と関わりがあるか理解が深まると思います。
そして負けず劣らずに徳川家と関係が深い地なのが、谷中です。
地理的に観ても、上野と隣接しているので影響があったことは当然とも言えますね。
そんな谷中には谷中霊園や天王寺を筆頭に、たくさんの寺社が現存しており、昔ながらの街並みを感じ取ることが出来ます。
これは谷中の地域が関東大震災や第二次世界大戦による被災が最小限だったことが影響しています。
そして谷中において最も徳川家と関係が深いお寺と言えるのが、今回紹介する「瑞輪寺(ずいりんじ)」です。
それでは本編へ!
徳川家康と日新上人
瑞輪寺の開山(かいさん:寺社を創建すること)を行った人物は、慈雲院日新上人(じうんいんにっしんしょうにん)と呼ばれるお坊さんでした。
この日新上人は、後の天下人で江戸幕府初代将軍となる徳川家康(とくがわいえやす)の幼き頃の学問教育の師範を行っていた人物だったのです。
現代人である我々の感覚からすれば、「お坊さんが勉強を教えるの?」と思われるかもしれません。
しかし時は戦国時代、戦乱の世において勉学が出来る教養のあるものや、果ては字が読み書きできるものまで限られていたのです。
それは戦国時代という時代における庶民らの暮らしが、1日を凌ぐのに精一杯の生活で、教育を受ける余裕がなかったという時代背景が大きく関係しています。
子どもですら農業に駆り出されていた背景もあり、教養あるものや字が読み書きできるものも限られていました。
それらを備えていたのが、当時の権力者(中世・戦国時代における宗教は現代とは比較にならほど力を有していた)であるお坊さんが、学問を教えていたのです。
当時字の読み書きができたものは、朝廷(天皇)・公家に武家(武家ですら読めないものもいたそうです)、寺社関係者、商人などと限られていました。
学問の普及が庶民にまで行き渡ったのは、江戸時代に入ってからになります。
そのため武家の子どもは、幼少の頃はお坊さんから学問を学ぶことが多かったそうです。
また、そのまま寺社に出家(しゅっけ:お坊さんになること)するものもいたと言います。
戦国武将として最も有名な織田信長(おだのぶなが)も幼き頃は教育係が存在し、沢彦宗恩(たくげんそうおん)と呼ばれるお坊さんに習っていました。
要はそういった学問における師匠と弟子の関係であったのが、日新上人と徳川家康であったというわけです。
瑞輪寺の歴史
瑞輪寺は先ほども出たように、日新上人によって開山されました。
しかし、現在の地である谷中に建てられたのは、二度の類焼(るいしょう:もらい火)を経た後で、1649年でした。
徳川家康はかねてより日新上人との間に、お寺を創建する約束をしていたのです。
そして1591年、豊臣秀吉の天下統一後に徳川家康は、幼少の頃の学問教育のお礼として、日本橋の馬喰町(ばくろちょう)に、最初の瑞輪寺が建てられました。
ですが、1595年に一度目の類焼の被害に遭い、天下分け目の合戦・関ケ原の戦い(1600年)後の1601年に神田の地へと移転されました。
神田の地でまたも類焼の被害に遭ったことで、1649年、現在の地・谷中に瑞輪寺が建てられたのです。
その後も台風や、幕末維新期には上野戦争(戊辰戦争中の一つの戦い)によって被害を受けました。
しかし復興再建され、現在へと繋がります。
徳川家、江戸幕府との関わり
瑞輪寺の始まりもそうですが、瑞輪寺には江戸幕府と所縁あるものが他に3つ存在します。
その一つが瑞輪寺境内にある、鐘楼堂(しょうろうどう)です。
これは元禄年間(1700年頃)に、江戸幕府3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進(きしん:寺社に土地や金銭等を寄付すること)によって建立されました。
もう一つは、江戸幕府に所縁ある人物のお墓があります。
それが大久保主水(もんと)のお墓です。
大久保主水(本名は忠行(ただゆき))は三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)出身の武士で、徳川家康に仕えていました。
しかし、三河一向一揆(いっこういっき)という戦の折に負傷してしまい、武士として生きていくことが出来なくなってしまいます。
ですが、大久保主水は菓子作りの才を持っており、その才を開花させたことで、江戸幕府成立後にお菓子司(おかしつかさ:国お抱えの菓子職人)として、徳川家康に仕えました。
また、1590年に徳川家康が江戸にてまちづくりを始めた際には、用水・治水事業を命ぜられます。
この時に池や、その池から流れる河流(かりゅう)を利用し、江戸城や江戸市中への引水に成功しました。
これは俗に、「神田上水(かんだじょうすい)」と呼ばれ、江戸ひいては日本としての水道の先駆けとなりました。
この功により、先の「主水(もんと)」という名を、主君である徳川家康より賜った(たまわった)のです。
戦国時代の治水事業と言えば、甲斐の虎こと武田信玄(たけだしんげん)が作った、「信玄堤(しんげんつづみ)」という堤防が有名ですよね。
昔の人にとって、雨風による河川の氾濫は天災と考えられ、仏罰(仏の神様による罰)として受け入れるしかないと認識されていました。
自然、天災、いわば神に挑む治水事業は一大事業、国家プロジェクトと考えることが出来ます。
そう考えると、武田信玄が作った信玄堤もそうですが、大久保主水の行った神田上水のスゴさも分かりやすいのではないでしょうか。
そして最後の一つが徳川家所縁のあるお寺にしか許されない、徳川家の家紋である「葵紋」の寺社内への使用です。
まとめ
ここまで見て下さってありがとうございました。
瑞輪寺について簡単にまとめさせていただくと、
瑞輪寺の創建者である日新上人は徳川家康の学問を教えていた
徳川家、江戸幕府とは密接な関係にあるお寺
・徳川家康の支援による瑞輪寺の創建、徳川家光の寄進による鐘楼堂の建立
・日本の水道の先駆けである用水事業を行った大久保主水のお墓
・徳川家の所縁あるお寺である証の「葵紋」の寺社内への使用
といったところでしょうか。
まとめてみると改めて、徳川家・江戸幕府とどれだけ関係が深いか分かります。
皆さんも是非一度足を運んでみてください。
それではここまでホントにありがとうございました。
ジャネバーイ!