【日本三大怨霊】台東区にも平将門が祀られていた!この夏は三大怨霊巡り
こんにちは、とくらです。
春が来たと思ったら、あっという間にすっかり夏になりましたね。
プールに虫取り、アイスクリームに夏祭り。
楽しいことがたくさんある夏ですが、オカルト好きな私としては、こう暑くなってくるとやはり怖い話で涼を感じたくなります!
そこで今回は、日本三大怨霊として語られる平将門と、平将門ゆかりの地である日輪寺についてご紹介します。
平将門
まず、三大怨霊としても知られる平将門ですが、歴史上ではどのような人物だったのでしょうか?
非常に有名な人物なのでご存じの方も多いかもしれませんが、将門について少しご紹介します。
平将門は平安時代の豪族です。
出身は現在の茨城県・千葉県のあたりだと言われています。
15歳ごろ、平安京に上り藤原北家の藤原忠平と主従関係を結び、滝口の武士として内裏の警護を行ったそうです。
桓武天皇の血を引いている将門ですが、藤原氏の政権下ではあまり高い官位は与えられず、京の内外を警護する「検非違使」を志願するも受け入れられませんでした。
当時は朝廷の要職は藤原氏が独占する状態だったのです。
10年程平安京で武士を務めた将門は、父の死をきっかけに関東に戻ることになります。
せっかく上京したのに、なんだか志半ばという感じですね…
さて、将門が関東に戻ってみると、なんと父の領地であった下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市周辺)が3人の叔父(良正・良兼・国香)によって勝手に分割されていたのです。
しかも、将門が結婚したい思っていた源衛の娘たちは3人ともこの3人の叔父に嫁いでいました。
更には、源衛の息子3人は将門が妻とした女性に好意を抱いていたという話も…
久々に家に戻ってみたらとんでもないお家騒動が勃発してしまったわけです。
叔父さんが父の遺産を勝手に分け合って、しかもその叔父さんに好きな子を取られて、やっと娶った奥さんにもちょっかい出される将門の心境は想像もつきません。
それから数年の後、承平5年(935年)2月、将門は源衛の3人の息子と叔父の国香を殺してしまいました。
息子たちを殺されてしまった源衛、叔父の良正、良兼はもうカンカンです。
軍を率いて将門を打ち倒そうとしますが、惨敗してしまいました。
打つ手がないと考えた彼らは、朝廷に将門が悪いということを訴え、将門は検非違使に尋問され捕らえられてしまいますが、朱雀天皇の元服による恩赦で放免されます。
その後、なんと良兼は彼の息子と共に再び軍を率いて将門を攻撃します。
しかし、この戦では良兼らが朝廷の怒りをかい、朝廷からのお墨付きをもらった将門によって駆逐されてしまいました。
この無敗と活躍によって、将門の強さと名声は関東に轟くこととなりました。
強大な力を手に入れた将門の周りには、どんどん頼ってくる人が集まってきます。
藤原玄明という人物もその一人でした。
藤原玄明は税を納めないなどの咎で常陸国から追われており、将門に助けを求めていました。
これを受け入れ玄明を匿った将門は、常陸国司からの玄明を引き渡すようにという要求に応じることなく、大きな戦になってしまいます。
総勢3000人の常陸国府と1000人の将門軍でしたが、あっけなく国府軍を打ち破った将門は「印綬」という朝廷から与えられた官位の証を奪い取りました。
これにより将門は、朝廷から常陸国を奪い取ることになったため、朝廷に敵対することになったのです。
この戦のあと、将門は次々に各地の印綬を奪い、関東の多くの土地を占領していきます。
朝廷の悪政に苦しんでいた民を味方につけた将門は自らを「新皇」と名乗り朝廷と完全に敵対することに…
有名な平将門の乱です。
この報告を受けた朝廷は、すぐさま各寺社に将門を調伏する祈祷を始めるよう命じますが、残念ながらこれはうまくいきませんでした。
そこで、「将門を討ち取った者は身分に関係なく貴族にする」というお触れを全国に出し、将門を捕えようと全国から武者たちが集まったのです。
この中には、あの因縁深い叔父・良兼の息子である平貞盛、そして俵太藤として知られる藤原秀郷がおり、連合軍を率いて将門を討ち取ろうと奔走します。
激闘の末、矢が額に命中し将門は倒れました。
その後、将門の首は平安京・七条河原へ運ばれ、晒し首にされました。
これは、記録が残る中で最も古い晒し首だと言われています。
平将門の首
さて、この将門の首には、多くの伝説が残っています。
首を斬られた後も、将門は秀郷に「首と胴を繋いでもう一戦しよう」と叫んだとか…
また、晒された首は何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりをしていたそうです。
京都の七条河原で晒し首になったはずですが、各地に将門の首を祀っている場所があります。
これは、首が胴体を求めて関東に向かって飛んで行ったという言い伝えがあるからです。
首が飛んできて落ちた、向かう途中で落とした、封じた、という話が京都から東京までの広い範囲に伝えられているのです。
中でも有名なのが、東京都千代田区の大手町にある将門塚ですよね。
ご存じの方も多いと思いますが、移転しようとすると祟りがある、工事をしようとすると祟りがある、事故が起こったり、不幸が相次いだというような伝説には枚挙にいとまがない首塚です。
まことしやかに「実際に報道された事件である」「記録に残っている」という風説もありますが、どうやら事実とする根拠には欠けるようでした。
しかし、1000年以上の時が流れても、いまだ「祟り」を恐れられるというのは将門の強い念を感じます。
日輪寺
将門塚を管理する神田明神の別当に、日輪寺というお寺があります。
日輪寺は、浅草にあるお寺で、神田明神と共に将門塚を護持していますが、ずいぶん離れた場所ですよね。
これは、もともと日輪寺が首塚の傍にあったお寺だからです。
鎌倉時代、首塚のあたりで疫病が流行し、村人が平将門の首塚の祟りだと怯えていました。
そこを通りかかった時宗の他阿真教という僧侶が塚を修復し供養したところ、疫病がぴたりとおさまったそうです。
村人たちの勧めで、この村にあった日輪寺を時宗に改めて念仏道場としました。
その後、日輪寺は数回寺の場所を移し、現在の場所に移ったのは明暦の大火で焼失したことによります。
日輪寺の始まりは、そもそも将門を供養したことだったんですね。
現在でも毎年2月14日は平将門の法要を行っているそうです。
住所:東京都台東区西浅草3丁目15−6
まとめ
まさか浅草に将門を由来に持つお寺があったとは…!
なんだか意外な場所に将門の所縁を発見してしまいましたね。
歴史の教科書や小説の中で見ていた平将門ですが、身近なところにその名残があったのは感慨深いです…
この夏は将門公をお参りしてみたいと思います。