【日本三大怨霊】父と子の悲しい関係…崇徳天皇が怨霊になったワケ
こんにちは、とくらです。
原始より人間は死ぬと魂として霊が体から離れていくという考え方が存在していました。
また、その霊は生きている人々に災いを起こすと信じられることもありました。
平安時代になると、怨霊信仰という形で、恨みを持ったまま亡くなった人の霊が祟ると信じられるようになったのです。
現在は怨霊として知られる人物は、悲しい運命の末に非業の死を遂げていることが多いですよね。
さて、今回は、日本三大怨霊として知られる崇徳天皇と金刀比羅神社についてご紹介します。
崇徳天皇とは
崇徳天皇は平安時代末期の第75代天皇です。
和歌の詠み人としても有名で、小倉百人一首の中の
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ
という歌は一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
即位時、崇徳天皇はまだ3歳(数え5歳)でした。
3歳と言えば、まだまだブンバボンを踊りながら口の周りをびちゃびちゃにしてヨーグルトを食べているような時期です。
崇徳帝の出生は非常に不遇で、父からは「叔父子」と呼ばれていました。
これは、崇徳帝の本当の父親は、鳥羽上皇ではなく曽祖父にあたる白河法皇であり、母である璋子と密通した結果生まれた子供である、という意味です。
曾祖父である白河法皇が鳥羽上皇に譲位するように迫ったことで、崇徳帝は3歳の幼さで即位することになりました。
子どもに罪はありませんが、鳥羽上皇には許せない気持ちがあったのでしょう。
崇徳天皇即位後、鳥羽上皇は院政を始めます。
その後、白河法皇が亡くなると、崇徳帝の弟であり養子でもあった近衛天皇を即位させるため、法王となった鳥羽帝は譲位を迫りました。
当時、近衛天皇は2歳という幼さでした。
過去自分がされた仕打ちを息子である崇徳帝に当てつけのように繰り返したのかもしれませんね。
しかも、弟であり養子であったため、皇子としても良いところを、鳥羽上皇は公式に「近衛天皇は崇徳帝の弟である」と示していたため、崇徳上皇が院政をしくことはできませんでした。
幼くして即位した近衛天皇ですが、非常に体が弱く、15歳ごろから自ら譲位を望むようになり、17歳という若さで崩御します。
後継天皇として崇徳上皇の皇子であり、鳥羽法皇の寵妃であった得子の養子でもあった重仁親王の名前が上がりましたが、結局、得子のもう一人の養子である守仁王(二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして守仁王の父である後白河天皇が即位することになりました。
これによって、崇徳帝の院政がかなうことはなくなり、崇徳派と後白河派での対立が始まります。
既にバチバチの崇徳帝いびりを感じますが、その後鳥羽法皇が崩御の際に更に追い打ちをかけられました。
なんと父である鳥羽法皇は自分の遺体を絶対に崇徳帝に見せないようにと言い残していたのです。
完全にキレてしまった崇徳帝は自宅にとんぼ返りするのですが、これによって「上皇は挙兵して国家を傾けようとしている」という噂が流れてしまいます。
崇徳上皇派閥と後白河天皇派閥のバチバチの争いもさることながら、この親族争いの中には藤原氏の一族内での争い、源氏と平家の対立など多くの政争が絡み合っており、既に一触即発という雰囲気であった朝廷ですが、鳥羽法皇の崩御をきっかけにして朝廷全体を巻き込んだ大規模な内乱に。
これが有名な「保元の乱」です。
結局、保元の乱で崇徳帝は敗北し、讃岐国に配流されることになりました。
天皇・上皇の配流は約400年ぶりの出来事であり、当時では異例の処分であったと言えます。
崇徳上皇は讃岐国での軟禁生活中、仏教に傾倒し、五部大乗経というお経の写本を作成し、反省の気持ちと戦死者への供養の気持ちを込めて、京の寺へ収めてほしいと朝廷に送付しますが、後白河帝によって「呪詛が込められているのでは?」と疑われ、送り返されてしまいました。
これに激しく怒った崇徳上皇は、写本に血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と書き込み、崩御まで髪や爪を切らず夜叉のような姿になったと言います。
配流の後、2度と京の地を踏むことなく、約8年で崇徳上皇は崩御し、46歳でその生涯に幕を閉じました。
怨霊となった崇徳天皇
保元の乱が終結した後も崇徳帝は罪人として扱われ、崩御した際にも後白河上皇はその存在を無視していました。
しかし、崇徳帝の崩御から12年、京の街を次々と災厄が襲います。
動乱や大火、立て続けに亡くなる崇徳帝に対立していた朝廷関係者。
これを「崇徳院の祟りである」として大変に恐れ、後白河上皇は寺を建立し、崇徳院を弔っていた讃岐のお寺にも朝廷の保護を与え、官位を授け、院号を「讃岐院」から「崇徳院」と改め、保元の乱の勝利宣言まで撤回してしまいます。
一庶民の感覚では、こんなに怖がるなら最初からもっと仲良くしておけばよかったのにと思ってしまいますが、それも難しいことだったのでしょう。
できる手立てをすべて尽くしましたが、結局この「祟り」とされるものは後白河上皇の崩御まで続くことになりました。
金刀比羅神社
金刀比羅神社は御徒町駅から徒歩3分ほどの場所にある神社です。
慶長年間に創建され、大物主命と崇徳天皇をご祭神としています。
この神社はもともと金刀比羅神社の本宮がある讃岐国高松藩主から旗本になった生駒家の邸宅でした。
当時は大名の屋敷に一般の人が立ち入ることは禁止されていましたが、金刀比羅大神の分霊を生駒家に勧請すると、参拝したいという人が多くいたため、生駒家が幕府に願い出て毎月10日は一般参詣を許可されることになったそうです。
金刀比羅神社が創建された後、生駒家が生駒騒動とも呼ばれるお家騒動によって大名の資格を失ったり、大正12年の関東大震災や昭和20年の東京大空襲で焼失したりと何度も危機を乗り越えて現在に至ります。
今の社殿は、昭和38年に新築されたものです。
金刀比羅宮に崇徳天皇が合祀されたのは、平安期に信仰されるようになった「御霊信仰」の影響でした。
これは、政争や戦乱の中で恨みを持って非業の死をとげた人物が怨霊となって災害や疫病を起こしているため、怨霊を鎮めて「御霊」として信仰することで祟りを免れようとするものです。
同じように、疫病を疫神として祀ることで疫病を防ぐというものがあります。
災いをなす存在そのものを信仰するというのは何だか不思議な感じを受けるかもしれませんが、とても面白いですね。
住所:東京都台東区台東3丁目22−6
アクセス:【御徒町】駅 徒歩3分
まとめ
ところで、金刀比羅神社は戦によって妃との縁が切れてしまった崇徳天皇が祀られているため、縁切りのご利益があるとか。
ご利益の由来も何だか物悲しい…
辛い政争の中で無念のうちに崩御し、勝手に恐れられ怨霊として祀られた不遇の天皇に思いを馳せて手を合わせたくなります…
隠岐に流された崇徳天皇と、大宰府に送られた菅原道真。
陥れておいて、何かあれば怨霊になった、祟りだと怖がるのは何だか身勝手な気がしますね。
本当に恐ろしいのは怨霊や祟りではなく、怨霊への恐れを作り出してしまう権力闘争なのではないでしょうか。