【名誉区民】逆風の中で技法を確立した巨匠・横山大観とは?

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こんにちは、とくらです。

台東区では、公共の福祉の増進、学術・技芸の進展に功績をのこした人物に、名誉区民の称号を贈り、その栄誉を讃えています。

現在名誉区民として登録されているのは、美術家・政治家など8名です。

中でも、今回は近代日本画壇の巨匠として、美術・絵画の分野で活躍した横山大観についてご紹介します。




横山大観

横山大観は明治・大正・昭和と3つの時代で活躍し、「朦朧体」という手法を確立した近代日本画壇の巨匠です。

大観は、1868年(慶応4年/明治元年)現在の茨城県水戸市に生まれました。

父は水戸藩士であったため、大観の出生と時を同じくしてその身分を失ったことになります。

勝手な心配ですが、さぞ不安だったでしょうね。

子どもの頃の大観は、製図や測量を仕事としていた父の影響で、建築設計の道に進むことを考えていました。

東京英語学校在学中、絵画に興味を持ち洋画家の渡辺文三郎から鉛筆画を学び、東京美術学校を受験することに決めました。

進路を決めると、大急ぎで当時活躍していた画家たちに教えを請いますが、非常に短い期間であったそうです。

また、試験の直前になると、受験生のほとんどが鉛筆画で受験するという情報を聞きつけ、急遽毛筆画に方向転換。

見事、東京美術学校への合格を果たしました。

大学受験での試験科目を戦略的に変更することはありますが、受験直前に描き方から変えてしまうのはしっかりした実力あってこその力技ですよね…!

卒業後は岡倉天心が校長を務める東京美術学校の助教授に就任しました。

在職中に制作した「無我」は大観の代表作の一つで、現在も切手の図案として利用されるなど有名な作品です。

しかし、その2年後には岡倉天心の排斥運動が起こり、大観は岡倉天心の失脚と共に職を辞します。

同年、岡倉の思想に共感した美術家の団体である日本美術院の創設に参加しました。

当時の岡倉のカリスマ性は尋常ならざるものがあったようで、辞職した職員は大観だけではなく、なんと30名以上もの辞職願が出されたと言います。

結局そのうちの半数は実際に辞職しており、当時の日本美術界における岡倉の影響力の大きさがうかがわれます。

美術院での活動の中で、大観は自らの代名詞ともなる没線描法を生み出します。

輪郭を線で明瞭に描き表さず、ぼんやりとした印象になることから当時の画壇では批判的に「朦朧体」と呼ばれていました。

現在では大観の画法を表す「朦朧体」という言葉ですが、最初は皮肉のように使われていたようです。

日本の伝統的な絵画の技術と西洋の画法を取り入れた新たな表現方法として編み出された手法だったため、保守的で古い考え方が多数を占めていた当時の画壇ではこの手法が評価されることはなく、後に海外で開催された展覧会で高い評価を受けることとなります。

伝統を重んじることに囚われすぎて、新しいものを受け入れることができなくなった業界は衰退の一途をたどるのでは…と心配になってしまいますね。

海外に渡った大観は、多くの国で展覧会を行い、欧米諸国での評価を受けて、ついに国内での大観への評価も見直されることとなりました。

その後は数々の功績から、日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1954年には茨城県名誉県民にもなっています。

1958年(昭和33年)、大観は台東区池之端にある自宅で89歳で亡くなりました。

現在、大観は谷中霊園で眠っていますが、脳のみは東京大学医学部でアルコールに漬けて保存されています。

横山大観旧居・横山大観記念館

横山大観の旧居は、現在では横山大観記念館として一般公開されています。

1919年(大正8年)から約40年間、89歳で亡くなるまで、寝起きし制作を行った邸宅に、現在は多くの作品が展示されており、大観のこだわりが詰まった自宅全体がまるで一つの美術作品のようです。

一度は東京大空襲で焼失しましたが、1954年に建築当初とほとんど同じ形で再建されました。

この邸宅の庭にある樹木や石など、敷地内のモチーフをテーマとした作品も多くあり、実際に作品世界に入ったような感覚になってしまうかもしれませんね。

【住所】東京都台東区池之端1-4-24

【アクセス】

東京メトロ千代田線「湯島」駅 徒歩7分

東京メトロ銀座線「上野広小路」 徒歩12分

JR「上野」駅/JR「御徒町」駅 徒歩15分

京成線「京成上野」駅 徒歩15分

都バス「池之端1丁目」バス停 徒歩1分

【開館時間】10:00~16:00(最終入館15:30)

【休館日】月・火・水曜日 ※臨時休館日あり




まとめ

新たな画法を発明したことで、批判を浴びることになってしまった横山大観。

何でも新しいことを始めるときには逆風に立ち向かわざるを得ないのかもしれません。

もしもこの時大観の心が折れて、海外に目が向かなければ、現代でこれほど名前が知られることもなかったでしょう。

当然実力は折り紙付きであった大観ですら、紙一重で成功をつかみとったのだと思うと、芸術家とは何と恐ろしい生業なのかと少しばかり背筋が寒くなりました…

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ライター紹介

とくらじゅん

イラストレーター・ライター

1991年生まれ。下町暮らしのフリーライター・イラストレーター。 妖怪イラスト、育児漫画、ADHDエッセイなどを書いています。
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