〇〇を家に持ち帰るほど写生に憑りつかれた絵師河鍋暁斎とは?

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こんにちは、とくらです。

先日、葛飾北斎や沖田総司についてご紹介しましたが、台東区に暮らしたり、没後墓が台東区内に建てられたりと、台東区にゆかりのある歴史的な著名人は多くいます。

特に江戸文化の立役者として活躍した芸術家がとても多い印象です。

江戸の文化を今なお感じさせる街なのは、多くの江戸文化人を輩出しているからかもしれませんね。

さて今回は、俳人や歌人、画家、小説家などなど、台東区にゆかりのある多くの芸術家の中から、墓所が台東区の文化財として登録されている江戸の浮世絵師「河鍋暁斎」についてご紹介します!




河鍋暁斎

河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。

その画才と絵に対する貪欲な姿勢から、自らを「画鬼」と称したほど。

暁斎は生涯を通してさまざまな表現を探究し続けた非常に熱心な絵師であり、確かにそのエピソードはまさに「画鬼」という二つ名にふさわしいものです。

1831年(天保2年)、現在の茨城県に生まれた暁斎は、3歳の頃に親戚の家を訪れた際初めて「かえる」の写生をしています。

絵師となってからも長い間かえるをモチーフにしていたのは、この出会いがあったからかもしれませんね。

初めての写生から3年後、1837年浮世絵師である歌川国芳に入門します。

入門後は毎日一日中画帖を持って歩き、あらゆるものを写生していました。

この頃の暁斎の写生に対する熱意はとてつもないものでした。

有名なエピソードが「生首の写生」です。

1839年、梅雨の時期に神田川が溢れた際に川の近くで「生首」を拾って持ち帰ると、その生首を精緻に写生したといいます。

1831年に生まれたということは10歳前後ということですよね…

これは既に絵に憑りつかれているような…

歌川国芳の門下生として幼いころからめきめきと頭角を現した暁斎でしたが、国芳の素行を不安に思った父によって、狩野派の前村洞和(まえむらとうわ)に弟子入りすることになります。

暁斎に「画鬼」という二つ名を付けたのは前村洞和でした。

洞和は暁斎をとても可愛がりましたが、入門の翌年には洞和が病に倒れてしまいます。

狩野派に移籍した後も、暁斎の写生欲求はとどまるところを知りません。

近所で火事が発生するとその様子を写生したり、水浴び中に川で捕った鯉の鱗を一枚ずつ観察したりとどんなイベントでも写生に取り組んでいます。

この時写生した鯉は、他の塾生たちが「さばいて食べよう!」と言うのを制して「絵の勉強をさせてもらった師匠だから川に返す!」と言い張って、川に放してあげました。

暁斎は後年、「自分が鯉を描く技術が高いのはこの事件のおかげ」と語ったそうです。

写生するモチーフに対しても非常に敬意を払っていたんですね。

19歳で修業を終えた暁斎は、画家として仕事を始めます。

当時、館林藩秋元家のお抱え絵師だった坪山洞山(つぼやまとうさん)の養子となりますが、2年後には離縁されています。

これは、女中が珍しい帯を付けていたため写生するためについて回っていたのを、「女中の尻を追い回している」と勘違いされたからなのだとか…

家を追い出されるほどの写生欲求とは…

家を追い出された暁斎は、土佐派、琳派、四条派、浮世絵などなど、多くの画法を自由に学んでいきます。

生活は苦しい時期でしたが、所属派閥が無いというのはむしろ好都合だったのかもしれません。

絵の技術を意欲的に学び、実力をつけていった苦労の時代を経て、暁斎は遂に独立します。

1858年になると惺々狂斎(せいせいきょうさい)と号して、浮世絵を描き始め、戯画や風刺画で人気を博しました。

「狂斎」の「狂」を「暁」と改めたのが「暁斎」という号です。

暁斎と名乗り始めたのは1871年(明治4年)明治時代になってからのことでした。

明治時代に入ると、暁斎は上野不忍池で催された書画会で、新政府を批判する戯画を描いて捕らえられましたが、翌年に放免され、この事件の後から「暁斎」と改めています。

1881年(明治14年)、お雇い外国人のジョサイア・コンドルが暁斎に入門します。

コンドルは「暁英」という号を与えられており、非常に親しくしていた様子が暁斎の絵日記にも書かれています。

ちなみに、この絵日記というのが、幕末から亡くなる1か月前のものまで残っており、似顔絵や絵の代金、支払い、天候などのあらゆることが記されているため、気象についての貴重な資料となっているそうです。

おそらくさらさらと描いているからでしょう、基本的にこの絵日記は漫画のような可愛らしいタッチなのですが、時々出てくる似顔絵など、当然ですがめちゃくちゃ似ています。

誰に見せるともなく描いていたであろう絵日記ですが、本当に見ごたえありまくりです。

とにかくすごい絵日記ですが、残念ながら現存するものは4年分のみとのこと。

なんだかもったいないですね…

1884年(明治17年)2月26日の絵日記には、「客山本、フキノトウ、大島屋、卵。笹之雪参る」との記載があり、この笹之雪(笹乃雪)は現在も名物となっている豆腐専門店です。

絵に憑かれた画家ですが、誰とどんなお店に行ったのかを記録したりと、意外とマメな人物ですね。

同じく絵に憑りつかれた画家・画狂老人卍こと葛飾北斎とはずいぶん対照的な印象です。

1889年(明治22年)、暁斎はコンドルの手を取りながら胃癌のため57歳で亡くなりました。

暁斎は死の3日前、絵が描きたい欲求に抗えず、障子に自らの病んだ姿と棺を描いたと言われています。

最期まで描くことを止められなかった、生粋の「画鬼」でした。

現在は谷中の瑞輪寺に眠っています。

墓石には遺言によって、暁斎が生前愛した「かえる」に似た石が使われています。

豆富料理 笹乃雪

元禄四年から現在に続く豆腐料理専門店で、その長い歴史から、多くの文化人にも愛されたお店です。

暁斎だけでなく、正岡子規や赤穂浪士にもゆかりがあるお店だそうですよ。

住所:東京都台東区根岸2-15-10

アクセス:JR山手線【鶯谷駅】北口 徒歩2分

河鍋暁斎の墓

暁斎の墓は、瑞輪寺塔中正行院にあります。

墓石は自然石を重ねて作られており、一番上にはかえるの形の石が置かれています。

住所:東京都台東区谷中4-1-6

アクセス:千代田線【千駄木駅】1番出口 徒歩7分




まとめ

以前葛飾北斎をご紹介した時に感じたことですが、何かを極めた人、大体ちょっと行くところまで行ってるな、という気持ちです。

しかし、3歳で初めて描いたモチーフを墓石にするというのは、なんだか素敵ですよね…!

自分の墓石はどんなデザインにしようかと、少しワクワクしてしまいました。

それではまた!

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ライター紹介

とくらじゅん

イラストレーター・ライター

1991年生まれ。下町暮らしのフリーライター・イラストレーター。 妖怪イラスト、育児漫画、ADHDエッセイなどを書いています。
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