意外と知らない地名の由来!台東区の東部旧浅草区編(浅草、蔵前、浅草橋、今戸など)
やっはろー!
皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!
突然ですが皆さん、「地名の由来」を考えたことはありますか?
僕は、大学の授業のレポートで地元の地名などについて調べたことがあります。
しかし、ほとんどの方は中々考えたり知ったりする機会がありませんよね。
今回はそんな「地名」について、台東区内にスポットを当てて、紹介したいと思います。
台東区は東京都内で一番狭い区域、ということをご存知でしたか?
とはいえ、一気に紹介してしまうと羅列になってしまって、脳内に入ってこないかもしれないので、2パートに分けたいと思います!
明治維新後の台東区は、ちょうど東西で分かれる形になっていました。
現在の台東区の西側に当たる部分が「旧下谷区(きゅうしたやく)」と呼ばれ、東側に当たる部分が、今回紹介する「旧浅草区(きゅうあさくさく)」となります。
それでは本編へ!
旧浅草区とは
旧浅草区は、戊辰戦争などの明治維新が終わった後の1878年(明治11年)に誕生します。
この時代、「東京都」は存在せず、「東京府」と呼ばれていました。
東京府の中に旧浅草区があり、1889年(明治22年)に「市制町村制」が成立すると、東京府の中の独立した自治体、東京市15区の中の1つとなりました
1932年(昭和7年)、新たに20区が追加され、東京市15区から35区へと大幅に増加します。
しかし、1943年(昭和18年)に「東京都」という現在の制度へと変わると、東京府及び東京市が廃止され、35区は東京都の行政区へと変わりました。
その後第二次世界大戦へと突入し、東京大空襲などの影響もあり、東京35区制は廃止となり、22区制となります。
1947年(昭和22年)に22区制へと変わり、同年8月に23区制となり現在に至ります。
この時に旧浅草区と、次回紹介する旧下谷区が合併し、台東区が誕生しました。
2017年(平成29年)に台東区成立70周年を迎え、2022年の現在は75年目となります。
地名由来等の紹介
浅草橋
浅草橋は、台東区の南端に位置する町です。
浅草橋という町が誕生したのは、1934年(昭和9年)のことでした。
地名の由来は、江戸時代の頃に神田川に掛かっていた橋の名前にちなんで付けられました。
奥州街道から江戸城へとかけて繋がる橋で「浅草御門橋」と呼ばれていましたが、やがて変化し、「浅草橋」と呼称されるようになったそうです。
柳橋
柳橋は、台東区の南東端に位置する町です。
柳橋という町が誕生したのは、浅草橋と同じで1934年です。
地名の由来は、こちらも浅草橋と似ており、神田川と隅田川の合流地点に掛けられた橋の名前にちなんで付けられました。
鳥越
鳥越は、台東区の南部に位置する町です。
地名の由来は、地区内に存在する鳥越神社と同様です。
1051年、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)親子が奥州征伐の際に、白鳥明神(当時の鳥越神社の名前)に立ち寄っていました。
親子は川を渡るときに鳥が飛んで行った姿を見たことで川の浅瀬が分かり、軍勢を渡河(とか:かわを渡ること)させることが出来ました。
この伝説・伝承にちなみ、鳥越の名前が定着したそうです。
三筋
三筋は、台東区の南部に位置する町です。
1941年(昭和16年)に「浅草三筋町」が誕生し、1964年(昭和39年)に現在の台東区三筋が成立しました。
地名の由来は、江戸時代の頃から屋敷の間に3条の道が縫うように通っていたことから、3本の筋(道)となり、「三筋」と名付けられました。
蔵前
蔵前は、台東区の南東部に位置する町です。
1964年(昭和39年)に、蔵前という町が成立しました。
地名の由来は、1620年、江戸幕府が浅草御蔵(幕府最大の米蔵)と舟着場をつくり、付近を御蔵前(おくらまえ)と呼んだことに始まります。
元浅草
元浅草は、台東区の中部に位置する町です。
元浅草という町が誕生したのは、1934年(昭和9年)のことでした。
地名の由来は、旧浅草区と旧下谷区の境目にある浅草繁華街の西の初め(元)にある、という意味からきています。
寿
寿は、浅草の南、蔵前の北、と挟まれるような位置関係にある町です。
地名の由来は、縁起を担ぐために「寿」と名付けられました。
現在の「寿」という町の形は、1964年(昭和39年)に成立しました。
駒形
駒形は、台東区の東部に位置する町です。
駒形という町も寿と同じく1964年に成立し、現在に至ります。
地名の由来は、浅草寺にある駒形堂の名前にちなんでいます。
雷門
雷門は、台東区の東部に位置する町です。
地名の由来は、お察しの通り浅草寺にある雷門から名付けられています。
松が谷
松が谷は、台東区の中央部に位置する町です。
松が谷は旧浅草区と旧下谷区という、過去の区制の名残が分かりやすく出ています。
松が谷1丁目から3丁目南部までが旧浅草区、松が谷3丁目北部から4丁目までが旧下谷区に属していました。
そのため地名も、浅草松葉町の「松」と、下谷入谷町の「谷」を合わせています。
千束
千束(せんぞく)は、台東区の北東部に位置する町です。
明暦の大火後に移転してきた新遊郭、吉原遊郭は現在の千束3丁目と4丁目の一部に当たります。
地名は、千束分の稲田(米)を寺領としたことが由来していると言われています。
浅草
皆さんご存知の浅草は、台東区の東部に位置する町です。
浅草という地名の由来については様々な説があります。
アイヌ語のアツアクサ(海を越えるの意味)を起源とするものや、ベット語のアーシャクシャ(聖なる土地を意味する)を起源とするもの、麻草を起源とするもの、など様々な説があります。
また「浅草」という地名は、鎌倉時代にはすでに存在していたと言われています。
『吾妻鏡』と呼ばれる文献内において(1181年7月3日に書かれたとされる記述の箇所に)、「浅草」という地名の存在が確認出来ます。
花川戸
花川戸は、台東区の東端に位置する町です。
地名の由来には諸説あり、「桜(=花)並木のある川端通り」であったとされています。
若しくは、「川を望む地に、桜並木と多くの戸(家)があったこと」とも言われています。
今戸
今戸は、台東区の北東部に位置する町です。
今戸神社などが有名な町として知られています。
またかつて安土桃山時代(戦国時代)の頃には、今戸焼と呼ばれる焼き物が有名な土地柄でもありました。
今戸からほど近い、石浜という地には古くからの港がありました。
そのため今戸に新たに港を築いたことで、「今津」と呼ばれたそうです。(津とは港の意味を指します。)
そこからやがて呼び方が変化していき、現在の今戸となったのが地名の由来とされています。
日本堤
日本堤は、台東区の北部に位置する町です。
日本堤の町域一帯にはかつて二本の堤(堤防)が存在し、それらを合わせ、二本堤、日本堤と変化したと言われています。
新吉原遊郭が出来ると、日本堤は吉原通いの道となり、吉原土手や土手八丁と呼ばれていたそうです。
橋場
橋場は、台東区の北東端に位置する町です。
地名は鎌倉時代の文献、『義経記(ぎけいき)』や『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』によると、浮き橋を架けたという記載があり、これが由来とされています。
1964年(昭和39年)に、現在の町域となりました。
まとめ
ここまで見て下さってありがとうございました。
調べてみないと分からないことって世の中にたくさんあると思いますが、地名の由来という普段何気なく過ごしていると分からないことが発見出来ました。
今回調べていて感じたこととして、地名の由来というのは案外安直な理由で始まっているのだなと感じました。(三筋や橋場、日本堤など)
みなさんも自分がゆかりのある地の名前の由来を調べてみると面白いと思います。
それではここまでホントにありがとうございました。
ジャネバーイ!