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織田、豊臣、徳川の戦国三英傑に仕え、準一門格の待遇を得た世渡り上手の池田家! 現代に残る重要文化財、旧因州池田屋敷表門(黒門)について

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フーテミッターフ!

皆さんどうもこんにちは、メッシンタです!

今回は江戸時代に関するテーマということで、オランダ語の挨拶にて登場です。

今回ご紹介する因州池田家は、遡れば織田家の家臣に始まり、豊臣(羽柴:以後呼称は豊臣家に統一)家・徳川家で準一門格(一門:徳川家の一族など、準一門:徳川家の親族を妻に迎えるなど)の待遇を得た、世渡り上手な印象を受けます。(因州池田家とは、池田宗家と区別する言い方。分家と言える。)

因州池田家は大大名でしたので、現存している表門も大層立派な門となっています。

池田家の歴史と合わせて、表門をご紹介したいと思います。

それでは本編へ!




池田家の織田家臣時代

池田恒利(つねとし)という戦国武将は当初室町幕府の第12代将軍足利義晴(よしはる)に仕えていました。

しかし足利家へ仕えるのを辞すと、尾張国(現在の愛知県西部)で池田家の家督を継ぎ、この時に池田恒利という名前を名乗りました。(池田家の後継ぎが居なかったため、養子に迎えられ家督を継ぐ。)

以来織田信秀(おだのぶひで:織田信長の父)に仕えます。

養徳院(ようとくいん)と呼ばれる女性が妻となり、嫡男恒興(つねおき)が誕生します。

そしてこの養徳院が吉法師(きっぽうし:織田信長の幼名)の乳母(めのと:高貴な身分の子供は実母ではなく、乳母と呼ばれる女性が乳をあげる。)となります。

これにより恒興と信長は乳兄弟の関係となり、信長にとって頼れる家臣の存在となっていくのです。(清須会議と呼ばれる、本能寺の変後の織田家の行く末を決める会議に出た織田家の重臣の4人の1人となるほど。)

池田恒興は信長のもとで活躍し、摂津国(現在の大阪府、兵庫県の一部)に所領を得たりもしました。

そして本能寺の変を迎え、乳兄弟であった主君信長が亡くなります。

池田家の豊臣家臣時代

主君信長が亡くなった後、恒興は豊臣秀吉に接近します。

秀吉の子供である豊臣秀次(ひでつぐ:秀吉の姉の長男で養子として迎えられる。恒興の娘を妻に迎えた。)を恒興の入り婿にし、恒興の次男輝政(てるまさ)を養子に出すことを約束しました。

しかし、迎えた1584年。

織田家の後継者を巡る争い、小牧・長久手の戦い(簡単に言うと豊臣陣営VS徳川陣営の争い)にて恒興は討死にしました。

この戦いで恒興の嫡男元助(もとすけ)も討死にしてしまい、池田家は次男の輝政が家督を継ぐことになりました。

以後豊臣家に仕え、美濃国(現在の岐阜県南部)に所領を得ました。(その後に三河国〈現在の愛知県東部〉に移封したりもした。)

また親の仇ともとれる徳川家と姻戚関係を結びます。

これは秀吉の仲介によって成立し、輝政の後妻(ごさい:離婚ないしは死別した妻の後に、迎えた妻のことを指す。)に徳川家康の娘、督姫を迎えました。

結果、池田家は豊臣、徳川両家と姻戚関係を結んだことになりました。

池田家の徳川家臣時代

豊臣秀吉が亡くなり、皆さんもご存知の「天下分け目の戦い 関ヶ原の戦い」が迫ります。

輝政はこの戦いを東軍側、徳川家の立場で戦います。

結果はご存知の通り、東軍、徳川家の勝利に終わります。

輝政自身は西軍と刃を交えることはありませんでしたが、その働きを認められ、戦後功により池田家は播磨(現在の兵庫県南西部)52万石を与えられ、初代姫路藩主となりました。

この際に姫路城の大改修を行い、現在の姫路城の形に近づいたとされています。

他にも池田家は、輝政の次男忠継(ただつぐ)は備前(現在の岡山県東南部)28万石を与えられ岡山藩主となり、三男忠雄(ただかつ)に淡路一国(現在の淡路島)6万1千石が与えられ洲本藩主となりました。

また輝政の弟長吉(ながよし)にも鳥取6万石を与えられるなど、池田家は破格の待遇を受けました。(後に転封などもある)

因州池田家の成立

そんな輝政は1613年に亡くなります。

遺領(ゆいりょう:人の死後に領地)は輝政の長男利隆(としたか)が継ぎます。

しかしその利隆も1616年と、父の死後からわずか3年後に亡くなってしまいます。(一説には家康の娘で後妻の督姫が、前妻の子利隆ではなく、実子の次男三男に継がせるため毒殺したのではと言われたりしているが、実態は作り話の類とされている。※輝政の次男忠継、三男忠雄が督姫の子供で徳川家康の孫に当たる。)

利隆の嫡男光政(みつまさ)は幼少だったことから、播磨姫路42万石から、因幡(現在の鳥取県東部)・伯耆(現在の鳥取県中・西部)32万石へと移封となります。(輝政の弟長吉の子・長幸は備中松山へ移封された。)

備前は輝政の次男忠継の死後、三男忠雄が継ぎます。(これにより淡路一国は収公された。)

しかし、その忠雄が亡くなると嫡男光仲(みつなか)が幼少だったことから、因幡・伯耆を治める光政と領地替えが行われました。

これによって輝政の長男・利隆の嫡男・光政が備前岡山藩主となり、池田宗家の家系として相続されていきます。

一方で輝政の三男・忠雄の嫡男・光仲が因幡・伯耆の鳥取藩主となり、因州池田家として以後相続されていきます。

旧因州池田屋敷表門(黒門)

さて、池田光仲の家系が因州池田家となることは先述の通りとなります。

その因州池田家の江戸の屋敷にあった門が、上野公園に現存しています。

「旧因州池田屋敷表門」、別称「黒門」とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。

こちらが実際の門の様子です。

質実剛健、なんだか武骨な感じの門で、THE武家の屋敷ですね。

日光東照宮などの壮麗な感じとはまた違った趣、良さがありませんか?

車との対比で、どれだけこの門が大きいのか分かりますよね。

ちなみに「黒門」という別称は、現在東京大学にある「赤門」と対比した言い方となります。

その赤門は、加賀前田家(加州家)の屋敷の門のことを指します。

というかいくら保存のために手が加えられているとはいえ、江戸時代やもっと昔からの歴史的建造物が現存しているってスゴイですよね。

人の叡智の結晶とも言えそうです!




まとめ

ここまで見て下さってありがとうございました。

本記事について簡単にまとめさせていただくと、

・池田恒興は織田信長と乳兄弟で、本能寺の変後は豊臣家に仕えるも、小牧・長久手の戦い

 で長男・元助とともに志半ばで討死にしてしまう

・恒興次男・輝政が池田家を継ぐが、豊臣秀吉の仲介により徳川家康の娘・督姫を後妻に迎

 え、関ヶ原の戦いでは東軍として戦い、戦後に播磨52万石を与えられ初代姫路藩主とな

 る

・輝政死後長男・利隆が家督を継ぐも3年後に亡くなり、嫡男光政は幼少だったことから因幡・伯耆32万石へと移封され、鳥取藩主になる

・輝政の次男・忠継の死後、三男忠雄が備前岡山藩を継ぐが、忠雄が亡くなると嫡男光仲が幼少だったことから、鳥取藩主光政と領地替えが行われる

・以来、池田光政の家系が宗家として備前岡山藩を治め、池田光仲の家系が因州池田家として鳥取藩を治める

・そして因州池田家の江戸屋敷の門が現存しており、質実剛健な通称黒門が上野公園にある

といったところでしょうか。

今回はいつもに増して、人物の名前が多くて、難しかったかもしれません。

ですが、織田信長に始まり、豊臣秀吉、徳川家康と代々の天下人となる人物に仕えてきた池

田家の歴史、大変興味深く、面白いお話だったのではないでしょうか。

大変貴重な武家屋敷の門を見るチャンスがすぐそばにあるのです!

是非訪れてみてはいかがでしょうか。

それではここまでホントにありがとうございました。

ジャネバーイ!

旧因州池田屋敷表門(黒門)
住所:東京都台東区上野公園13番地
開門時間:土・日・祝日の10:00~16:00


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ライター紹介

メッシンタ

めぐり部/フリーライター

年齢/20歳。学歴/現役大学生。趣味/サッカーすることとサッカー観戦。性格/素直。 夢/死ぬまでにイングランドのリバプールに行ってホームスタジアム・アンフィールドで生観戦すること。 後はお金持ちの妻子持ちになること。
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