もう一つの相撲の聖地!蔵前に国技館があった34年間!台東区が支えた昭和大相撲の黄金時代!そして両国への橋渡し!
現在の「蔵前」といえば、お洒落なカフェが立ち並ぶ「東京のブルックリン」として注目を集めているエリアです。
ところがかつてこの地には日本中の熱狂が集まる「相撲の聖地」が存在しました。
1950年から34年間にわたり、戦後の大相撲の黄金時代を支え続けたのが、「蔵前国技館」です。
蔵前国技館が歩んできたこの34年間こそが、実は現代の大相撲の礎を築いたといっても過言ではありません。
今回は、もう一つの相撲の聖地・蔵前国技館について、詳しくご紹介します。
蔵前国技館とは?
蔵前国技館とは、現在の両国国技館の前に存在した国技館のことです。
蔵前国技館の歩みは次の通りです。
1950年(昭和25年)1月: 仮設状態で最初の本場所を開催(ここからスタート)
1954年(昭和29年)9月: 建物が正式に完成・本館開館
1984年(昭和59年)9月23日: 秋場所千秋楽をもって閉館(ここで終了)
蔵前国技館は、1950年の1月、まだ屋根もない状態で本場所が開催され、約4年間建築工事を続けながら仮設状態で営業を続けます。
ようやく1954年に完成し、仮設・本館合わせて約34年間、蔵前の地にありました。
国技館とは何か?
蔵前国技館を知る上で重要なキーワードとなるのが「国技館」です。
国技館とは、大相撲の本場所が開催される開催場のことです。
もともと相撲は、明治の終わり頃までは神社や寺院の境内で行われていました。
本来の目的は勧進といって神社や寺院の寄付金集めでしたが、江戸時代中期以降から営利目的に変わっていきました。
ところが勧進相撲は屋外で行われるため、天候に左右されず、都度相撲場を作る必要のない常設の相撲場の建設計画がすすめられます。
1909年(明治42年)、ついに初代の「両国国技館」が現在の東京都墨田区両国の「回向院(えこういん)」の境内につくられます。
設計したのは日本銀行本店や東京駅の設計者辰野金吾でした。
「国技館」の命名のいきさつは、作家の江見水蔭(えみ すいいん)の書いた挨拶文の中の「そもそも角力(すもう)は日本の国技…」から、3代目・尾車親方が「国技館」を強く推したことで国技館と命名されます。
これ以降、相撲は日本の国技というイメージが定着しました。
ちなみにその後、全国に国技館ブームが起こり、浅草凌雲閣の隣に、「浅草国技館」が1912年(明治45年)に開館します。
「蔵前」の名前の由来とは?
「蔵前」の名前の由来は、江戸時代にこの地に幕府の「御米蔵(おこめぐら)」があったからです。
御米蔵とは、年貢米などを保管した米蔵のことです。
もともと御米蔵は和田倉、北の丸 鉄砲洲 竹橋などに分散していましたが、1620年(元和6年)に現在の蔵前の地に集約され「浅草御蔵」と呼ばれます。
蔵前という地名が初めてつけられたのは、翌年1621年(元和7年)の「浅草御蔵前片町」からです。
理由は「御米蔵」の目の前にあった土地だからです。
蔵前が新国技館に選ばれた理由とは?
蔵前が戦後の大相撲復興の象徴である「新国技館」の建設地に選ばれたのは、決して偶然ではありません。
蔵前はさまざまな理由で相撲と親和性が高かった場所でした。
蔵前が新国技館の地に選ばれた理由は次の3点です。
勧進相撲の発祥の地だったから
蔵前には、勧進相撲の発祥の地の1つである蔵前神社があります。
江戸時代には、谷風、小野川、雷電などの3大強豪力士による名勝負が繰り広げられました。
境内には大日本相撲協会から社号標や石玉垣が奉納されています。
東京高等工業学校跡地を所有していたから
相撲協会は戦前から蔵前橋たもとの東京高等工業学校跡地を所有していました。
この地は蔵前国技館があった場所です。
もともと1940年(昭和15年)頃から、新国技館の建設計画がありました。
ところが戦争で一旦中断します。
初代両国国技館が使えなくなったことから、建設が再開され開館します。
「両国」が近かったから
初代国技館があった両国と蔵前は隅田川を挟んでほぼ対岸に位置しています。
橋を渡ってすぐの距離です。
まさに「目と鼻の先」と言える距離で、かつて蔵前国技館から現在の両国国技館へ移転した際も、ファンからは「川の向こう側へ引っ越した」という感覚に近いものだったといわれています。
昭和大相撲の黄金時代を彩った蔵前国技館
蔵前国技館では、昭和大相撲の黄金時代を彩ったさまざまな出来事や名勝負が行われました。
1955年(昭和30年)には、昭和天皇が戦後初めて、蔵前国技館で「天覧相撲」を観戦されました。
これによって「相撲は戦後復興の象徴」として国民的に広く再認識されます。
蔵前には三大時代があります。
栃若時代
栃若時代とは栃錦と若乃花(初代)のことです。
「技の栃錦、力の若乃花」と称され、戦後の相撲人気の爆発点となりました。
柏鵬時代
柏鵬時代とは柏戸と大鵬のことです。
戦後最長の黄金時代を築き、「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語まで生まれました。
輪湖時代
輪湖時代とは輪島と北の湖のことです。
学士横綱(輪島)と怪物(北の湖)の対決は、蔵前時代後期のハイライトです。
両国へ帰る
蔵前国技館は戦後の物資不足の中で造られた建物だったため、30年近く経ち老朽化が深刻な問題になりました。
そこで昭和の名横綱・栃錦こと第五代春日野清隆理事長は、両国国技館建設を計画します。
1977年(昭和52年)に旧国鉄と直談判、蔵前国技館を143億円で売却、両国の土地を94億円で購入。
また後の力士たちが苦労しないように無借金で両国国技館を起てることに成功します。
1985年(昭和60年)1月、現在の(二代目)両国国技館が完成。
大相撲が「本拠地・両国」に帰ってきました。
まとめ
今回は、もう一つの相撲の聖地・蔵前国技館についてご紹介しました。
昭和の激動期、大相撲の灯を絶やすことなく灯し続け、数々の名勝負の舞台となった蔵前国技館。
1950年から1984年まで、台東区蔵前は間違いなく「日本で最も熱い場所」でした。
戦後復興のシンボルとして建てられた蔵前国技館は、厳しい時代を生きる人々に勇気を与え、娯楽を超えた心の拠り所となりました。
現在、この日本一熱かった場所は、蔵前水の館としてその姿を変えています。
ぜひ台東区蔵前にお越しの際は、かつての相撲の聖地を訪れてみてはいかがでしょうか。










