上野|大吉原展は5月19日まで:東京藝術大学大学美術館
こんにちは、とくらです。
今回は、東京藝術大学大学美術館で開催中の大吉原展についてご紹介します。
大吉原展
大吉原展は東京藝術大学大学美術館で2024年3月26日(火)〜5月19日(日)まで開催されています。
「江戸の吉原は、約250年続いた幕府公認の遊廓でした。遊廓は、前借金の返済にしばられ自由意志でやめることのできない遊女たちの犠牲の上に成り立っていた、現在では許されない、二度とこの世に出現してはならない制度です。
一方で、江戸時代における吉原は、文芸やファッションなど流行発信の最先端でもありました。
3月にだけ桜を植えて花見を楽しむ仲之町の桜や、遊女の供養に細工を凝らした盆燈籠(ぼんとうろう)を飾る7月の玉菊燈籠、吉原芸者が屋外で芸を披露する8月の俄(にわか)など、季節ごとに町をあげて催事を行い、贅沢に非日常が演出され仕掛けられた虚構の世界。そこでは、書や和歌俳諧、着物や諸道具の工芸、書籍の出版、舞踊、音曲、生け花、茶の湯などが盛んでした。そうした吉原の様子は多くの浮世絵師たちによって描かれ、蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)らの出版人、大田南畝(おおた なんぽ)ら文化人たちが吉原を舞台に活躍しました。また、年中行事は江戸庶民に親しまれ、地方から江戸見物に来た人々も吉原を訪れました。
本展に、吉原の制度を容認する意図はありません。国内外から吉原に関する美術作品を集め、その一つひとつを丁寧に検証しつつ、江戸時代の吉原の美術と文化を再考する機会として開催します。展示は、ワズワース・アテネウム美術館や大英博物館からの里帰り作品を含む、菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)、英一蝶(はなぶさ いっちょう)、喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)、鳥文斎栄之(ちょうぶんさい えいし)、葛飾北斎(かつしか ほくさい)、歌川広重(うたがわ ひろしげ)、酒井抱一(さかい ほういつ)らの絵画や錦絵、修復後初公開となる高橋由一の油絵《花魁》(重要文化財)などに工芸品を加えた約230点による構成です。現代美術家・福田美蘭さんによる描きおろし作品《大吉原展》も出品されます。」
引用:大吉原展公式サイト
こちらは大吉原展の概要です。 許されない制度でありながらも、多くの文化を生み出した吉原という特異な空間。 この吉原という花街から生まれた芸術や文化を展示した大吉原展は、広報のあり方がSNSで炎上するなど、とても話題を集めました。 しかし、現在公式サイトを確認すると、本展で吉原の制度を容認する意図はないことが明記されています。
開催が疑問視されてから短期間で大変な見直しがあったことだと思いますが、このスピード感はすごい…
吉原といえば、ついつい美しい面ばかりに目を向けてしまいますが、もちろん吉原は人身売買があってこそ成り立っていた到底許されざる場所だったのです。
大吉原展では多くの文芸、工芸、美術、文化を紹介していますが、それは吉原の一側面にすぎません。
そこには確実に遊女たちの悲哀や、人権を踏みにじられた歴史が存在しています。
実際にどのような場所だったのかも併せて知ってみると、更に理解が深まる展示かもしれませんね。
会期:2024年3月26日(火)~5月19日(日)
※会期中、展示替えがあります。 前期:3月26日(火)~4月21日(日)、後期:4月23日(火)~5月19日(日)
開館時間:午前10時~午後5時(入館は閉館の30分前まで)
会場:東京藝術大学大学美術館(台東区・上野公園)
アクセス:JR上野駅(公園口)、東京メトロ千代田線根津駅(1番出口)より徒歩10分 京成上野駅(正面口)、東京メトロ日比谷線・銀座線上野駅(7番出口)より徒歩15分
江戸時代の遊女たち
ここで、江戸時代における遊女とは、吉原とはどのようなものだったのかを少しだけご紹介したいと思います。 吉原とは、江戸時代に江戸郊外に作られた、幕府公認の遊女屋が集まる遊廓(吉原遊廓)のことです。 東京都台東区千束の一部にあたり、現在は日本最大の風俗街として知られています。
昭和32年(1957年)4月1日の売春防止法施行まで、元吉原の時代から数えて340年にわたって、吉原遊廓は営業を続け、現在でもその名残のように土地にソープランド営業が行われているのです。
1617年(元和3年)、庄司仁右衛門という遊女屋の主人が幕府から認可を受け、今の日本橋近くに幕府公認の遊郭が開かれました。これが吉原の始まりです。その後、1657年(明暦3年)の大火を契機に吉原は浅草の外れに移り、「新吉原」と呼ばれ、幕末まで栄えました。
幕府公認は役と特権を意味し、江戸時代の男女比が2対1で売春が横行する中、幕府は性産業を管理し、性的秩序を維持するために吉原に特権を与えました。 この公認は吉原を経済的にも社会的にも組み込み、遊女屋は幕府の後ろ盾から融資を受け、収益の一部を上納金として納めていました。1868年(明治元年)の史料によれば、遊女屋の上納金は旧町奉行所や東京府の収入の12%を占め、売春業は重要な資金源でした。
吉原と言えば、ドラマや映画の舞台となることも多く、華々しいイメージがある方も多いのではないでしょうか? しかし、多くの遊女は年季奉公という形で働かされており、年季が明けるか借金を返し終わるまでは吉原を出ることはできませんでした。
遊女屋は役と特権によって保護されていましたが、遊女たちはその対象ではありませんでした。 彼女たちは農村から売られ、性的搾取を受ける存在であり、新吉原には時代によって3000人から5000人の遊女がいましたが、高級遊女はごくわずかでした。
18世紀末には、新吉原はますます下層化、大衆化し、遊女たちの状況は劣悪になります。 厳しい状況の中で生き抜こうとする遊女もいましたが、19世紀には吉原で放火事件が頻発しました。
1849年(嘉永2年)、梅本屋の遊女16人が放火未遂事件を起こしました。 彼女たちは経営者の非道を訴え、正当性を主張しまし、この事件で遊女たちが書いた日記には、凄惨な日常が赤裸々に綴られており、遊女たちは時に暴力によって支配されていたことが明らかになっています。
まとめ
このような悲惨な歴史を持った場所である吉原と遊女。 しかし、ここが流行の最先端を作っていたこともまた事実です。
色々な背景を考えながら見ていると、また違った感慨もあるかもしれませんね。
大吉原展は2024年3月26日(火)~5月19日(日)東京藝術大学大学美術館で開催中です。